僧侶になった印東氏
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日昭(1236年~1323年) 日蓮直弟子の六老僧筆頭。昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘(妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。嘉禎2年(1236年)、下総国海上郡に生まれたとされるが、確実な生年は不明である。父の印東治郎左衛門尉祐昭は印東次郎左衛門尉の息と伝わる。 幼くして成弁と号して比叡山に登り、尊海阿闍梨を師と仰いで修行を重ねた。才能あふれる成弁を尊海から聞いた近衛兼経は彼を猶子に迎えたという。日昭についての伝承は詳しく伝わっていないものの、日昭は日蓮が亡くなるときには上首と定められるほど信頼の厚い人物であった。鎌倉においては幕府の弾圧に屈せず、弘安8年(1258年)4月には幕府に陳情を提出するなど日朗とともに活躍。教団の基礎を固めることに尽力した。 また、御家人・工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立。現在の材木座・実相寺である。元亨3年(1323年)3月26日入滅。 さじき女房(不詳) 鎌倉の人で一説には印東三郎左衛門祐信の妻といわれる。また日昭の縁故の人というが、明らかではない。「さじき」は「棧敷」と書き、鎌倉の地名である。
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