個人的な困難と第一次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/28 21:02 UTC 版)
「ポール・オトレ」の記事における「個人的な困難と第一次世界大戦」の解説
1906年、彼の父親であるエドゥアール(Édouard)の死期が近くなって事業が立ち行かなくなってきたこともあり、ポールは実の弟と5人の異母兄弟でOtlet Frères(「オトレ兄弟」)という会社を設立し、鉱山や鉄道を含む事業の経営をめざした。ポールは、書誌編纂の仕事に没頭していたのにもかかわらず、会社の社長になった。1907年にエドゥアールが亡くなると、家族はすべての事業を維持しようと奔走した。1908年4月にオトレと妻は離婚手続きを開始した。オトレは1912年にVan Nederhesseltと再婚した。1913年、ラ・フォンテーヌはノーベル平和賞を受賞すると、その賞金を資金困難に陥っていたオトレと自身の書誌編纂事業に投資した。オトレは1914年初めに米国に赴き、米国政府から追加の資金を得ようとしたが、第一次世界大戦の勃発でその試みは断念せざるをえなくなった。オトレはベルギーに戻ったが、間もなくドイツによってベルギーが支配され、国外へ逃れた。戦争中のほとんどをパリとスイスの各地で過ごした。彼の息子二人はベルギー軍で戦い、一方のジャン(Jean)はイゼールの戦いで亡くなった。戦争中オトレは平和をもたらす努力をし、また将来の戦争を回避するような複数国の組織を創設しようとした。1914年、"La Fin de la Guerre"(『戦争の終焉』)という題の本を出版し、そこで国際連盟の基礎として「世界人権憲章」を提示した。
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