信州紬
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信州紬 |
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しんしゅうつむぎ |
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織物 |
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着物地、帯、羽織 |
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信州紬の始まりは、奈良時代に織られていた「あしぎぬ」まで遡ります。江戸時代初期には、信州の各藩が競って奨励したことから、養蚕が盛んになり、信州全域が紬の織物産地として栄え、毎年京都へ大量の紬が送られていました。 しかしその後紬織物の生産は下火になり、昭和の中頃までは、技術保存の名のもとに、わずかに続けられていたにすぎませんでした。戦後、県や市町村が紬織物の復興に力を入れたため、県下全域で生産が活発になり、高級な反物として、信州紬の名声も次第に高まりました。 |
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長野県 |
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昭和50年2月17日 |
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主な商品は、着物用の「反物」と「帯地」の2つで、様々な色柄のものが生産されています。特に、100%山繭で作った山繭紬はここだけの特産品です。 |
信州紬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/06 16:48 UTC 版)
信州紬(しんしゅうつむぎ)は、長野県全域で生産される織物で、1975年2月17日に、経済産業省(当時の通商産業省)から伝統的工芸品として指定された。 生産する地域によって、「松本紬」、「上田紬」、「飯田紬」、「伊那紬」、「有明紬(あづみの紬)」[1]、「山繭紬」、「絁(あし)紬」、「絓(しけ)紬」などと呼ばれており、これらを総称して「信州紬」と呼んでいる。
産地組合は長野県織物工業組合である。
歴史
江戸時代の初期には、各藩の産業政策として養蚕を奨励していた。信濃(現在の長野県)では各地で養蚕が行われており、屑繭を原料とする紬は原料生産地がそのまま織物生産地となった。1750年(寛延3年)8月に京都に出荷されて以来、明治に至るまで毎年のように出荷されることとなった。特に上田のものは上田藩の奨励もあって、井原西鶴『日本永代蔵』などの文芸作品に登場し、化政文化のころに最盛期を迎えた。
信濃では、草木染め材が豊富に自生していたことから、養蚕と併せて草木染めの技法も普及した。
安政の開国後の生糸高騰で衰退し、昭和の中期までは技術保存の名目で細々と技術伝承がされてきただけであったが、1952年に紬織物の復興が計画され、県を始めとする自治体の振興策により、県下全域に亘り活発な生産が行われ、現在に至っている。
伝統的な技術・技法
- かすり織物、しま織物又はこれに類する織物は次の技術、技法により製織すること。
- かすり糸の染色法は、「手くくり」によること。
伝統的に使用されてきた原材料
使用する糸は、生糸(山繭系を含む。)、玉糸又は真綿の手つむぎ糸
製造される地域
長野県長野市、松本市、上田市、岡谷市、飯田市、須坂市、小諸市、駒ヶ根市、塩尻市、佐久市、千曲市、東御市、安曇野市、南佐久郡佐久穂町、諏訪郡下諏訪町、下伊那郡高森町、東筑摩郡生坂村、北安曇郡松川村、埴科郡坂城町、下水内郡栄村。
特徴
- 原材料の種類が豊富。
- 自生する植物を使った草木染めを活用している。
- 柄の構成は縞、格子、絣、又はそれらの混成、無地調子など多様。
- 他産地にはない「山繭」を使用した天蚕糸を使用するものがある。
工程
- 煮繭、絹の精錬 - 真綿づくり - 手紡ぎ - 染色 - 絣技法 - 製織
規模
- 企業数 17社
- 従業員数 105人
- (平成14年調査)
- 伝統工芸士(総登録) 27人
脚注
参考文献
外部リンク
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