会長解任、「社会の木鐸」の終焉
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「アール・エフ・ラジオ日本」の記事における「会長解任、「社会の木鐸」の終焉」の解説
1993年(平成5年)12月21日、遠山は午後3時から実施される予定だった取締役会に遅刻。遠山は「取締役会は定時に開催すべし」と連絡したことで、その日の取締役会は遠山が定刻に来ないまま開始した。本人到着を待つ間、長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部はその席上で遅刻している遠山の解任案を緊急発議。審議は全会一致で可決され、遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任。遠山が取締役会に到着した時は既に手遅れで、ワンマン体制に終止符が打たれた。取締役会終了後の午後3時15分には会議室に社員を集め「これはプレゼントです」と言い、遠山の解任を伝えた。 これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失い、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。 後任社長には外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同じく、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、1994年(平成6年)2月に「乱脈経営で会社に損害を与えた」として、遠山を告訴。遠山の土地・家屋を差し押さえて、一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させ、事実上の日本テレビ傘下に納めたことで混乱に一応の終息を見た。これにより経営破綻寸前であった同社はそれを免れ、以後 数年間にわたって再建した。
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