伊勢崎藩の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 13:13 UTC 版)
天和元年(1681年)、前橋藩主酒井忠挙(忠清の子)は、弟の酒井忠寛に伊勢崎領2万石を分知した。これにより、前橋藩酒井家の支藩的存在として伊勢崎藩が成立し、幕末を経て明治の廃藩置県まで続くこととなる。なお、本家は寛延2年(1749年)に姫路藩に移封された。 藩政は初代藩主・酒井忠寛の時代に確立する。稲垣氏時代の陣屋は破却されていたため、新たに伊勢崎陣屋を建設した。その後、藩は財政難に陥ったが、3代藩主・酒井忠温(ただはる)の時代に行なわれた藩政改革により再建された。忠温は安永4年(1775年)に藩校学習堂を開くなど文治政策を進めた。以後の藩主も文教政策をすすめ、五惇堂や遜親堂など多くの郷学校を育成したことで知られている。 幕末には本家の姫路藩が佐幕派だったため新政府から警戒されたが、8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。 明治2年(1869年)6月の版籍奉還により、忠強の跡を継いだ酒井忠彰は知藩事となった。明治4年(1871年)の廃藩置県により伊勢崎藩は廃藩となり伊勢崎県となった。伊勢崎県は同年内に群馬県(第1次)に編入され、その後は熊谷県を経て1876年(明治9年)に群馬県の一部となった。 藩主家は明治17年(1884年)に子爵となった。
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