伊勢大河内氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/10 06:19 UTC 版)
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2014年9月) |
伊勢大河内氏 | |
---|---|
![]()
三つ巴
|
|
本姓 | 村上源氏北畠氏流 |
家祖 | 北畠顕雅 |
種別 | 公家 武家 |
出身地 | 伊勢国 |
主な根拠地 | 伊勢国 大河内 城山 |
著名な人物 | 大河内親忠 大河内親泰 大河内具良 |
支流、分家 | 星合氏(のち江戸幕府旗本) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
伊勢大河内氏(いせおおこうちし / うじ)は、南北朝時代から戦国時代にかけての日本の氏族。
歴史
南北朝時代
南北朝時代に入ると、北畠家では北畠親房が南朝の中心人物として活動を始めた。初期には北畠顕家(親房の嫡男)が多々良浜の戦いで足利尊氏を破り、九州へ敗走させるなど快進撃を続けたが、石津の戦いで顕家が戦死した後、その勢力は急速に弱まった。しかし北畠顕能(親房の三男)が伊勢に入り周辺国人を次々と平定、勢力を盛り返し、滅亡の危機は免れた。
室町時代
明徳三年(1392年)に足利義満により南北朝が統合された。しかし室町幕府は南北朝の両統迭立の約束を破り、南朝の小倉宮親王を無視して称光天皇を天皇として即位させた。これに憤激した北畠満雅は関東公方の足利持氏や、関氏、萩野氏と結託して阿坂城にて挙兵した。幕府は討伐軍を送り込むが、各所で大きな損害を受け、小倉宮を次期天皇に据えるという条件で和議が成立した。この戦いの際に満雅の弟である顕雅は大河内城の防衛を命ぜられ、功を挙げた。これが伊勢大河内氏の発祥である。正長元年(1428)に称光天皇が崩御すると、またもや幕府は約束を破り後花園天皇が即位した。これに対し満雅は挙兵したものの、将軍・足利義教の討伐軍に敗れ、戦死した。これにより北畠家は大いに衰退したものの、顕雅が幕府との交渉に当たり追討を受ける事はなかった。
戦国時代と滅亡
戦国時代には具良が五代目の伊勢大河内氏の当主となる。この頃織田信長による伊勢侵攻が始まり、北畠具教は大河内城を居城としたため、伊勢大河内氏は多気郡大淀に移った。しかし家中の有力者である木造具政が木造城で謀反を起こすなど、離反者が後を絶たなくなり北畠家は織田家に降伏、国司の具房に養子として織田信雄が送り込まれ、和議が成立した。しかしながら具教ら北畠一族はこの縁組を不本意に思っていた。そこで武田信玄と通じて謀反を起こす計画を立てるが、その報は信長に早急に伝わり三瀬の変で北畠一族は誅殺、伊勢大河内氏の六代当主・教通も追討を受けて殺され、伊勢大河内氏は完全に滅亡した。
歴代当主
- 大河内顕雅
- 大河内親郷
- 大河内親忠
- 大河内親泰
- 大河内具良
- 大河内教通 - 最後の当主
系譜
参考文献
- 伊勢大河内氏のページへのリンク