代言業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 02:42 UTC 版)
明治5年(1872年)助郷制度廃止に伴い、負担金清算を巡って駿河国・甲斐国の村々間で係争が生じ、府中宿代理人として訴訟に関わった。1875年(明治8年)2月甲府裁判所で提訴不受理となり、9月上旬沼間守一の協力で東京上等裁判所に控訴するも棄却された。 1876年(明治9年)2月大審院に上告中、2月22日代言人規則により免許制が導入されたため、5月第2回代言検査を受験し、7月東京裁判所代言人となった。受験のため私立法律学校に通ったかどうか定かでない。 その後も助郷訴訟は長引き、1877年(明治10年)2月大阪上等裁判所での再審、1878年(明治11年)大審院での再審を経て示談が成立した。 1877年(明治10年)静岡呉服町四丁目に択善社を設け、地元静岡でも代言業を開始した。1878年(明治11年)10月28日有渡郡により第1回静岡県会議員に推薦されたが、高塚村小野田五郎兵衛の訴訟業務等のため辞退している。
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