今井町の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 02:07 UTC 版)
今井町はもともと興福寺領であったが、永禄年間に一向宗の布教拠点として顕如上人から寺号を得て今井兵部と今西與次兵衛によって「称念寺」を中心に寺内町を形成した。その後、環濠城塞都市化して織田信長軍と闘ったが、堺の豪商津田宗及の斡旋で武装放棄した。信長から「万事大坂同然」とし特権を許されて商工業を盛んにし自治都市として発展し「今井千軒」・「海の堺、陸の今井」と言われるまでになる。 元和6年(1620年)8月には徳川家康の外孫である松平下総守忠明が12万石で大和郡山城に入り、元和7年(1621年)5月に今井を巡見し、町政の体制を整えた。つまり、「惣年寄」を置き、行政権と司法権を与え、自治的特権を与えられたのである。なお、町政の役職については、「惣年寄窺書」(今西家文書)に町方の治安・訴訟・懲罰や非常時の処置や代官交代の規定などが詳しく条文化されている。 17世紀後半、5代将軍徳川綱吉のころに幕藩体制が整うと、今井にも代官が置かれ、幕府領として支配されることになる。しかし、農村の多くが20 - 30軒程度だった当時、1千軒もの家を有する今井町は破格の規模であった。しかも、肥料・木綿・味噌・醤油・酒・材木などの取引も盛んな上、大名相手の金融業も活躍し、藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」も流通した。これほどの財力は幕府にとっても大きな魅力であったので他とは違う支配体制で優遇した。
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