人物・子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 23:39 UTC 版)
父と共に武勇に長けていた。堂洞合戦においても信房は自ら真っ先に進み、抜連れて切ってかかり、加治田軍を深田へなだれ落ちさせたり、丸山にとり上り、細道を登る加治田軍を差し詰め引き詰め散々に射る。更に信房は五十余騎を東の方からかからせ、西に加治田軍を追い詰め、右往左往に落ちた活躍を見せている。 信房も数度の合戦により兵が戦い疲れたが、討ち残った三十余人を前後に立て、加治田軍六百余ともみ合い、二時も戦う。 最後は、三ヵ所に傷を負い、残り六騎となり、雑兵によって死ぬより、心閑に自害せんと松原に入り、腹十文字に搔き切り、東枕に伏す。残り五騎も思う程戦い、忠死を遂げた。その首は湯浅新六が討取った。 乳母が弟の岸信宗(3歳とも)をつれて秘かに城を落ち延び、岐阜芋島に潜んだ。その子孫が、岐南町平島の岸氏である。 一人娘の栄姫(9歳)も乳母がつれて逃げ、叔母の佐藤清秀にかくまれた。成人後、嫡子佐藤義秀の正室となった。。 加治田栃洞区堂洞東裏手には「姥ヶ洞」の地名があり、城を落ちた乳母が栄を連れて一時潜んだ場所であると伝わっている)。栄姫が逃げ出された時、斎藤道三の感状を入れた巾着の口を締め、長い紐を体に巻き付けて逃げ延びたと伝わっている。栄姫が愛用したかんざしも西神野岸家に伝わっている。
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