人形峠鉱山の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:59 UTC 版)
1950年代に原子力の利用が確立されると、日本各地でもウラン鉱床の探索が行われるようになった。当時、ウランは花崗岩中に含まれることが多いと考えられており、花崗岩の豊富な中国山地で重点的な調査が行われ、1954年(昭和29年)夏には岡山大学のチームが倉敷市でウラン鉱石を発見した。また、通産省工業技術院地質調査所も倉吉市の小鴨鉱山の含金石英粘土脉でウラン鉱石を確認し、1955年(昭和30年)になると、天神川のさまざまな支流の上流域でウランの鉱脈の存在が確認されるようになった。 航空機にガイガーカウンターを積み込んでの調査(エアボーン調査)、ジープにガイガーカウンターを積み込んで山岳地帯を走行する調査(カーボーン)が併用され、遂に11月12日、地質調査所が峠の頂上からやや鳥取側の道路脇の新第三系基底部で堆積型ウラン鉱の露頭を発見した。それまでに発見された鉱脈にも「小鴨鉱山」や「十二川鉱床」などと、それぞれ名称が付与されていたが、峠付近の鉱床には近くの山である人形仙から「人形峠鉱山」と命名された。これ以来、かつての打札越が「人形峠」と呼ばれるようになった。人形峠鉱山を筆頭に、周辺のウラン鉱山としては、夜次鉱床、赤和瀬鉱床、中津河鉱床、恩原鉱床、辰己峠鉱床、十二川鉱床、神ノ倉鉱床、菅ヶ谷鉱床、長者鉱床などが発見されている。人形峠の鉱床はなかでも高品位で、0.05%から0.06%のウラン鉱石が分布し、日本で唯一、まとまった鉱量の見込めるウラン鉱であると確認された。
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