京極丸・小丸・山王丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:47 UTC 版)
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続いている。中丸は大堀切の北側にあり、三段からなる階段曲輪で、それぞれの段で横矢を築いている。 京極丸は京極氏の屋敷があったと伝承されている。しかし 浅井久政、浅井長政時代には京極氏は河内城にいた。また、浅井亮政が旧主京極氏を幽閉していた場所だったので京極丸と名づけられたともいわれている(この曲輪は、『信長公記』によって同時代においてもこの名前で呼ばれていた)。城内では千畳敷曲輪に次ぐ二番目に広い曲輪跡である。 京極丸の北側に小丸がある。この場所は浅井久政が切腹し果てた場所で、左右2段の曲輪からなる。 主郭部の最も北側にあるのが山王丸である。山王丸は神社が祀っていたと考えられ、現在は名称が小谷神社にかわり小谷寺の一角へ移っている。4段から成り、詰めの曲輪でもある。また、山王丸の東側には高さ5mからなる大石垣があり、また各曲輪の虎口にも石垣が確認できる。『戦国の堅城』ではこれらの石垣は浅井氏の権力の象徴となっていた可能性を指摘している。石垣は鉄砲が伝来すると共に急速に広がっていくが、まだ戦国時代末期では国人の私的権力では構築が困難で、寺社に属する石工集団を動員する必要がある。近江国では六角氏のような守護に近い権力が必要であった。そこで浅井氏は自らの権力を配下の国人衆や、浅井氏の湖北での正当性や優位性を見せつける必要があり、石垣が築かれることによって浅井氏も国人から戦国大名になったのではないかと指摘している。 中丸跡 小丸跡 山王丸跡 大石垣
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