明日待子
(五條珠淑 から転送)
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あした まつこ 明日 待子 |
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婦女界出版社『婦女界』第58巻第2号より
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本名 | 小野寺 とし子(おのでら としこ) 須貝 とし子(すがい としこ) |
別名義 | 五條 珠淑(ごじょう たまとし) |
生年月日 | 1920年3月1日 |
没年月日 | 2019年7月14日(99歳没) |
出生地 | ![]() |
職業 | 女優、(五條流舞踊家) |
ジャンル | 軽演劇、映画、(日本舞踊) |
活動期間 | 1933年 - 1948年 (五條流は1955年 - ) |
活動内容 | 1937年『風車』 1946年『楽しき明日』 1948年『春爛漫狸祭』 1948年『鉄路の薔薇』 |
配偶者 | 須貝富安 |
明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日[1] - 2019年7月14日)は日本の女優、日本舞踊家。昭和初期から戦後にかけてムーランルージュ新宿座の看板スターとして人気を博した[注 1]。岩手県釜石市出身。後半生は日本舞踊家として過ごし、正統五條流宗家家元・五條 珠淑(ごじょう たまとし)を名乗った。
経歴
1920年(大正9年)3月、岩手県釜石市で警察署長を務める父・小野寺円之助[注 2]と母・とらえの娘、小野寺とし子[1]として生まれる。尺八を嗜む父と義太夫を嗜む母の影響で5歳から三味線と日本舞踊を習う[4]。9歳で父を亡くした後は母が税関通りで東洋軒[5]という店を始め生活を支えた。13歳のとき釜石市において地方巡業中だったムーランルージュの俳優・有馬是馬にスカウトされ、即入団が決定したという[注 3]。とし子の上京にあたり、釜石製鉄所の庶務課長・三鬼隆(後の日本製鐵社長)[注 4]が壮行会を開いてくれた。
上京後はムーランルージュ創設者の佐々木千里夫妻[注 5]の養子となり麹町高等女学校に入学したが、芸事が楽しく学校から足が遠のき、勉強は楽屋でムーランルージュの先輩に習った。1933年(昭和8年)11月に初舞台。入団から5年ほどは男の子の役ばかりだった[4]。愛称は「チィ」。屈託のない笑顔と愛らしいルックスで人気を博し、その後はムーランルージュ新宿座の看板女優として活躍した。現役時代は雑誌のグラビアや初代カルピスCMガール、ライオン歯磨、キッコーマン醤油などのポスターに起用されるなど一大ブームを巻き起こし、現在でいうところのアイドル的人気であった[8]。
また、当時開業して間もなかった小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)が増収策として週末のみ新宿から小田原までをノンストップで運行する列車が計画され、その中の発案でムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」と「小田急音頭」の製作を依頼しており、沿線案内の吹き込みには看板スターの待子が担当していた。実際に78回転盤(SPレコード)6枚組で完成した「小田急行進曲」と「小田急音頭」のレコードを走行中の車内で演奏をテストしたところ、発車起動時の振動から途端に針が飛んでしまいどうにもならず失敗に終わったため、実際に運行開始した「週末温泉急行」の営業列車では使用されなかったという。
1936年(昭和11年)5月。ムーラン・ルージュ新宿座に観劇に来た、間も無く満州に出征する第1師団兵士が、演目終わりに「明日待子万歳!」と声を上げる。この日からムーラン・ルージュ新宿座には「明日待子万歳!」の声が連日響くようになり、学徒出陣が始まるとさらに大きくなっていった。待子はステージから兵隊たちに呼び掛け、一人一人手を握って「ご苦労様。ご武運長久をお祈り致します」と声を掛けて回ったという[9]。
1937年(昭和12年)に映画『風車』に出演。戦後は『春爛漫狸祭』とマキノ映画作品『鉄路の薔薇』。合わせて3本出演している。
1943年(昭和18年)、黒龍江省、チチハル、ハルビン、奉天などの満洲方面に戦地慰問。列車の中でレコードケースを盗まれ、現地の芸者の三味線により生で踊った[10]。1945年(昭和20年)5月25日、空襲でムーラン・ルージュ新宿座(同時の名称は作文館)の建物が焼失する[11]。
終戦後の1946年(昭和21年)に待子はキングレコードより「楽しき明日」を発売[12]。
1948年(昭和23年)に待子たちムーラン新宿座は北海道を公演して回る。札幌では興行主の須貝富安が一行を歓待した[注 6]。富安は札幌劇場を運営する「須貝興業(後のSDエンターテイメント)」[注 7]の社長。翌1949年(昭和24年)11月、待子は2つ年下の富安と結婚し須貝姓となる。この少し前、待子には新設される松竹新喜劇やNHKで始まる新番組(とんち教室)の出演依頼が来ていたが、これらを断り北海道へ渡った[14]。札幌市に移り住んだ待子は、東京時代からの友人であり、北海道大学の助教授として赴任してきた新間進一夫妻と以前にも増して親しく付き合っている[15]。1953(昭和28年)には夫が運営する劇場の改装を機に、地下に洋食店「キッチン アシタ」を開店[16]。1954(昭和29年)に長女・るみ子を出産した[17]。同年、幼少時に習っていた日本舞踊を再開。時には子を背負って上京し、五條流の稽古に励んだ。翌1955年、宗家の依頼で五條流舞踊研究所を開設。1976年(昭和51年)分家家元を許される[18]。
1979年(昭和54年)には札幌市民文化奨励賞受賞。1973年(昭和48年)5月には欧州とカナダ、1978年(昭和53年)9月にはニューヨーク、1980年(昭和55年)6月にはミュンヘンに遠征し、文化使節団の一員として舞踊を披露している。1981年(昭和56年)にはムーラン創設五十周年記念として渋谷の西武劇場に待子をはじめとした関係者が集まり旧交を温めた[19]。
1994年(平成6年)正派五條流宗家家元、五條珠淑を襲名する。
2011年(平成23年)、新宿ケイズシネマで上映された映画『ムーランルージュの青春』の舞台挨拶に出席。約60年ぶりに公の場に姿を現した[20]。
2017年11月25日放送の『おはよう北海道土曜プラス』(NHK札幌放送局)に出演し、インタビューを受けている。
2017年12月8日放送の『爆報! THE フライデー』(TBSテレビ)で日本初のアイドルと紹介され、番組内で97歳になっていた待子と95歳になった当時からのファンと感動の再会を果たした[21][22]。
2019年2月27日放送の『1周回って知らない話』(日本テレビ)の中で日本のアイドル第一号として紹介された[23][24]。
2019年7月14日に老衰の為死去。99歳没[25]。
2022年8月10日、NHK歴史探偵の『戦争とアイドル』[26]で97歳の待子の生前最後と思われるインタビュー映像が放映された。インタビュアーは、メディア史研究家の押田信子。
参考文献
- 『私のなかの歴史』 4巻、北海道新聞社、1985年4月。NDLJP:12255344/108。
脚注
注釈
- ^ 笹山敬輔によれば、元祖・ライブアイドルの一人[2]。
- ^ 村井信平の著作によれば、明日待子の父は少なくとも一時期、釜石製鉄所の所員として働いていた[3]。
- ^ 「私のなかの歴史4」にある本人の供述によれば、釜石高等小学校2年生の時に女優になりたいという思いを抱いて姉を頼り上京。新宿のムーランルージュに行くも北海道巡業中であり空振りしたが、人を介して再度上京した際にムーランルージュ主催者である佐々木千里の妻・きぬに気に入られ、子供のいなかった夫妻と養子縁組する運びとなった[4]。
- ^ 芸人・出川哲朗の大伯父に当たる[6]。
- ^ 養母きぬは浅草の洋食店・廣養軒の娘。養父の千里はオペラ歌手兼食堂の店主だったが、玉木座の支配人を経て1931年の大晦日に自前の建物でムーラン・ルージュ新宿座を開く[7]。席は通常で450席、詰めて600席の小劇場であった。
- ^ NHKのドラマ『アイドル』では戦前、富安が早稲田の学生時代に出会っていることになっているが、実際は単なるファンとしてムーラン新宿座に通っていた。公演翌年の夏、御殿場の別荘にいた待子たちのもとを富安が訪れて結婚を申し込む。
- ^ 富安の父・富蔵は香川県丸亀の出身。札幌の一丁一家を率いる高橋直吉の一の子分と呼ばれ、高橋より小林館(後の札幌劇場)を譲り受ける。1909年頃に一丁一家の跡目を継いだが徐々に興業に専念し、一家は自然解散となった[13]。
出典
- ^ a b ムーラン・ルージュ『出演者営業鑑礼芸名及氏名』執筆年不明(1930年代としている)・国立国会図書館所蔵
- ^ 『幻の近代アイドル史』(2014年刊・笹山敬輔/著、ISBN 4779170141)
- ^ 村井信平『田中時代の零れ話』1955年、28頁。
- ^ a b c 『私のなかの歴史 4』北海道新聞社(1985年4月)国立国会図書館所蔵
- ^ 菊池弘『かまいし千夜一夜:企業城下町物語』岩手東海新聞社、1984年11月、220頁。NDLJP:9571337/120。
- ^ 押田信子『元祖アイドル「明日待子がいた時代」』扶桑社、2022年 。
- ^ 私の歴史 1985, p. 220.
- ^ “戦時中、兵士たちに夢をみせた元アイドル。97歳「まっちゃん」に話を聞いた”. BuzzFeed (BuzzFeed Japan). (2017年3月4日) 2017年3月5日閲覧。
- ^ “栗原裕一郎の音楽本レビュー 第1回:『幻の近代アイドル史』 伊藤博文は明治時代のトップヲタだった!? 快著『幻の近代アイドル史』を栗原裕一郎が読み解く(3/4)”. リアルサウンド (2014年7月26日). 2019年2月27日閲覧。
- ^ 押田信子『元祖アイドル「明日待子」がいた時代』扶桑社、2022年 。
- ^ 朝日新聞テーマ談話室 編『戦争:血と涙で綴った証言』 上巻、朝日ソノラマ、1987年7月、200頁。NDLJP:12227598/106。
- ^ 楽しき明日 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『北海道警察史 第1 (明治・大正編)』 北海道警察本部、1968年
- ^ 私の歴史 1985, p. 226.
- ^ 長野嘗一『学者評判記:国文学』 上、有朋堂、1967年、41-43頁。NDLJP:2973519/29。
- ^ 押田信子『元祖アイドル「明日待子」がいた時代』扶桑社、2022年 。
- ^ 『東北人銘鑑』南部菊太郎 編(1958年)
- ^ 私の歴史 1985, p. 229.
- ^ 私の歴史 1985, p. 223.
- ^ “【あの人NOW!】91歳で銀幕復活!「ムーラン・ルージュ」の明日待子”. ZAKZAK (2011年9月28日). 2020年7月12日閲覧。
- ^ “爆報!THE フライデー 奇跡の大再会2時間SP / 2017年12月8日放送 19:00 - 20:57 TBS”. TVでた蔵. 株式会社ワイヤーアクション (2017年12月). 2022年8月22日閲覧。
- ^ “「日本初のアイドル」明日待子さん 戦時中は兵士たちの癒しに”. 女性自身. 株式会社光文社 (2018年3月11日). 2022年8月22日閲覧。
- ^ “アイドル卒業目前の指原、おニャン子クラブ解散の真相に衝撃”. 日テレ. 日本テレビ放送網株式会社 (2019年2月27日). 2022年8月23日閲覧。
- ^ “1周回って知らない話 平成のアイドルアナ&指原莉乃&おニャン子解散の裏事情SP”. TVでた蔵. 株式会社ワイヤーアクション (2019年2月). 2022年8月23日閲覧。
- ^ “【訃報】戦時中に活躍した元アイドル「まっちゃん」こと明日待子さんが死去、99歳”. buzzfeednews. (2019年7月21日) 2019年7月21日閲覧。
- ^ 日本放送協会『「戦争とアイドル」 - 歴史探偵』 。2022年9月15日閲覧。
関連作品
- 映画
- ムーランルージュの青春(2011年) - 「ムーランルージュ新宿座」のドキュメンタリー映画。
- テレビドラマ
- 書籍
- 『元祖アイドル「明日待子」がいた時代』(2022年、扶桑社)押田信子/著
関連項目
- ムーランルージュ新宿座
- 佐々木千里
- 有馬是馬
- マキノ芸能社
- 小田急ロマンスカー
- 伊勢鈴蘭(アンジュルム) - ハロー!プロジェクトでデビューする前に札幌で日本舞踊の指導を受けていた[1]。
外部リンク
- 明日待子 - 日本映画データベース
- 91歳で銀幕復活!「ムーラン・ルージュ」の明日待子 - 「ZAKZAK あの人NOW!」2011年9月28日
- 斉藤茂吉の推しメン?90歳すぎても粋な昭和初期トップアイドル明日待子 - 「ネタりか」2014年12月12日
- 明日待子とは - Weblio辞書
- ^ “現役アイドル「日本初のアイドル」NHKドラマの明日待子さんから指導受けていた/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online. 2022年10月27日閲覧。
- 明日待子のページへのリンク