二宮尊徳の量率グラフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:00 UTC 版)
量率グラフに相当する方法で統計データを図に表した最も古い例は江戸時代の文政六年(1823年)に二宮尊徳の書いたものだとされている。 尊徳は文政四年(1821年)に、小田原藩大久保家の分家の旗本宇津家の財政と領地である下野桜町領約4000石の建て直しを依頼された。彼は文政四年8月から文政六年(1823年)までの間に、小田原・江戸・桜町の間を7回往復して現地を調査し、建て直しのための詳細な調査書を作り上げ、それに基づいて今後10年の見通しを立てて、桜町領建て直し計画を提出している。尊徳はこのときの調査結果を右の図のような量率グラフに表して桜町領の現状が一目でわかるようにした。尊徳は縦横10マスずつの100マスの正方形に、田と畑の割合とそれぞれの荒廃率を示した。そして全体の4割が年貢であることも示した。 右図の中段と下段の図は尊徳の作ったグラフを見やすいように書き直したものである。尊徳の書いたグラフからは桜町領の畑や田の半分以上が荒廃している。二宮尊徳はこの図を領主に見せて桜町領の状況を説明した。そして復興案として「荒れ地が全部復旧しても石高4000石の4割の年貢を取ってはいけない。そんなことをしたらまた村は荒廃する。全農地が復旧しても年貢は3割におさえなさい。それでも年貢の収量は今の2倍以上に増えることになる(右下の図)」と領主を説得した。これらのグラフに目を通した小田原藩主大久保忠真は、尊徳の主張を全面的に認めた。 尊徳はこれ以外にも全部で16枚の量率グラフを書いたことが確かめられている。 科学史研究者の板倉聖宣は「(この事例以外に)江戸時代にこのようなグラフが書かれたことは全く無いといっていい」として、「尊徳はこれ以外にもグラフをたくさん書いて」」いて、「尊徳は膨大な数量データを集めてそれをもとにして着実な計画を立てたといって間違いない」としている。
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