事務総長辞任の経緯
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1953年4月の参議院議員通常選挙の後、緑風会は社会党に参議院第二党の座を奪われ、第三党となったが、緑風会の河井彌八会長は自由党の吉田茂首相と面談して、この際自由党系の無所属議員を自由党に入党させず緑風会に入会させて緑風会に第二党の地位を保たせてほしい、そして、緑風会は参議院第一党の自由党に協力して円満な運営を期したいと申し入れた。その結果、自由党系無所属議員の緑風会入会により、緑風会は第二党の地位を得て、参議院の議長は自由党、副議長は緑風会という了解がされたとされていた。しかし、社会党は、この情勢を不快として議長を緑風会から出すように要求した。自由党はこの社会党の主張に反対し、河井会長が社会党の申し入れを緑風会の総会に諮り、自らが議長候補者となる旨を決定するに及び、自由党は各会派代表者の懇談会や議院運営委員会に出席することを拒否するに至った。 河井会長は、議長選挙の議事を主宰することとなる近藤に対し、速やかに本会議を開くことを要求してきたので、近藤は、書記官長も務めた貴族院事務局の先輩でもある河井会長に対し「経緯からして議長を受けてよいのか。信義の問題としてよいか。」と質したが、「推されるものは受ける。やむを得ない。」との返事を受けた。近藤が主宰する議長選挙の結果、河井は第3代参議院議長の座に就いたが、近藤は河井議長を事務総長として補佐する意思を失い、河井議長も近藤の辞任を希望したので、6月に辞任が許可され、22年間勤めた国会を去った。後に近藤は「責任政治の建前からは‥少なくとも議長は第一党がとることが妥当」であり、「中間無所属会派の一、二の人々の策謀や、私慾のためにこれが左右されることがあっては、‥政治を昏迷に陥れるのみ」と回顧している。 事務総長辞任後は、日本空港リムジン交通株式会社社長などに就き、1967年から中央選挙管理会委員となり、1977年から同委員長を連続3期務めた。
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