九戸城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:13 UTC 版)
九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に対し、少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた。浅野長政が、九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者に立て、「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟の九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと、揃って白装束姿に身を変えて、即ち出家姿で再仕置軍に降伏した。 浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、助命の約束は反故にされる形で、九戸実親以下の城内に居た者は全て二の丸に押し込められ、惨殺され火をかけられた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。
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