九戸勢の反乱とは? わかりやすく解説

九戸勢の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:13 UTC 版)

九戸政実の乱」の記事における「九戸勢の反乱」の解説

情勢不穏の中で天正19年1591年)の新年迎えると、九戸氏三戸城における正月参賀拒絶して南部本家への反意明確にする。三戸城配置されていた浅野長政代官が、2月28日上杉景勝重臣横手盆地西端大森城駐在する色部長実送った手紙には「逆意持った侍衆がおり糠部地方混乱状態にあること、当地の衆が『京儀』を毛嫌いし豊臣になびく南部信直反感抱いていること、仕置軍の加勢無ければ南部信直厳しい状態であること」などを伝えている。また同日南部信直から色部長実送られ手紙にも「逆意持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定である」という旨を書いている。 同年3月九戸側の櫛引清長苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し九戸側に協力しない周囲城館次々攻め始めた3月17日付の浅野長政代官から色部長実の手紙には「九戸櫛引逆心油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動控えている」ということなどが書かれている。 もともと南部氏精鋭であった九戸勢は強く三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏浄法寺氏らの協力得て防戦つとめたが、南部領内の一揆乗じて九戸勢が強大化し、更に家中争いでは勝利して恩賞はないと考え家臣日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐諦めて信直は息子南部利直重鎮北信愛上方派遣6月9日には秀吉謁見して情勢報告した

※この「九戸勢の反乱」の解説は、「九戸政実の乱」の解説の一部です。
「九戸勢の反乱」を含む「九戸政実の乱」の記事については、「九戸政実の乱」の概要を参照ください。

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