下ザルム諸家(1163年 - 1794年)
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シュポンハイム家傍系の下ザルム伯家は1416年に断絶し、近親の領主家門ライファーシャイト家(Haus Reifferscheidt)が家名および領地を相続した。息子のいないニーダーザルム伯ハインリヒ7世(Heinrich VII. von Niedersalm)は、親戚で孤児のヨハン5世・フォン・ライファーシャイト(Johann V. von Reifferscheid)を引き取って息子同然に扱い、遺言で彼を相続人に指名したのである。ところがハインリヒ7世の娘婿のアルテンバウムベルク伯オットー(Otto Raugraf zu Altenbaumberg)が相続請求を起こしてライファーシャイト家の相続に異議を唱えたため、1456年にルクセンブルク公爵領の評議会がこの遺言を合法と認めるまで、相続問題は決着が付かなかった。1460年になり、ヨハン5世の息子ヨハン6世(Johann VI. von Reifferscheid)はザルム伯(Graf zu Salm)の称号を名乗った。ヨハン6世の子孫からは、以下の3つの家系が分かれた。 ザルム=ライファーシャイト=ライツ家(Salm-Reifferscheidt-Raitz)は、1790年に帝国諸侯(ライヒスフュルスト)に列せられた。1945年に本拠であったモラヴィア地方のライツ(現在のチェコ領南モラヴィア州ラーイェツ=イェストジェビー)の所領を没収され、オーストリアのシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)に本拠を移した。 ザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム家(Salm-Reifferscheidt-Krautheim)は、1804年に帝国諸侯に列せられた。1888年には断絶したザルム=ライファーシャイト=ディーク家の相続人となってザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム・ウント・ディーク家(Salm-Reifferscheidt-Krautheim und Dyck)と名乗ったが、1958年に絶家した。 ザルム=ライファーシャイト=ディーク家(Salm-Reifferscheidt-Dyck)は、ディーク城(Schloss Dyck)を本拠とし、1816年にプロイセン王国の侯爵(フュルスト)に列せられたが、1888年に断絶した。
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