下ザルム諸家とは? わかりやすく解説

下ザルム諸家(1163年 - 1794年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/11 12:53 UTC 版)

ザルム家」の記事における「下ザルム諸家(1163年 - 1794年)」の解説

シュポンハイム家傍系の下ザルム伯家1416年断絶し近親領主家門ライファーシャイト家(Haus Reifferscheidt)が家名および領地相続した息子のいないニーダーザルム伯ハインリヒ7世Heinrich VII. von Niedersalm)は、親戚孤児ヨハン5世・フォン・ライファーシャイト(Johann V. von Reifferscheid)を引き取って息子同然に扱い遺言で彼を相続人指名したのである。ところがハインリヒ7世娘婿のアルテンバウムベルク伯オットーOtto Raugraf zu Altenbaumberg)が相続請求起こしてライファーシャイト家の相続異議唱えたため、1456年ルクセンブルク公爵領の評議会がこの遺言合法認めるまで、相続問題決着が付かなかった。1460年になり、ヨハン5世息子ヨハン6世Johann VI. von Reifferscheid)はザルム伯(Graf zu Salm)の称号名乗ったヨハン6世の子孫からは、以下の3つの家系分かれた。 ザルム=ライファーシャイト=ライツ家(Salm-Reifferscheidt-Raitz)は、1790年帝国諸侯(ライヒスフュルスト)に列せられた。1945年本拠であったモラヴィア地方ライツ現在のチェコ領南モラヴィア州ラーイェツ=イェストジェビー)の所領没収されオーストリアのシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)に本拠移した。 ザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム家(Salm-Reifferscheidt-Krautheim)は、1804年帝国諸侯に列せられた。1888年には断絶したザルム=ライファーシャイト=ディーク家の相続人となってザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム・ウント・ディーク家(Salm-Reifferscheidt-Krautheim und Dyck)と名乗ったが、1958年絶家した。 ザルム=ライファーシャイト=ディーク家(Salm-Reifferscheidt-Dyck)は、ディーク城(Schloss Dyck)を本拠とし、1816年プロイセン王国侯爵フュルスト)に列せられたが、1888年断絶した

※この「下ザルム諸家(1163年 - 1794年)」の解説は、「ザルム家」の解説の一部です。
「下ザルム諸家(1163年 - 1794年)」を含む「ザルム家」の記事については、「ザルム家」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「下ザルム諸家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下ザルム諸家」の関連用語

1
16% |||||

下ザルム諸家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下ザルム諸家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのザルム家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS