三郎から景虎へとは? わかりやすく解説

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三郎から景虎へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 13:44 UTC 版)

上杉景虎」の記事における「三郎から景虎へ」の解説

永禄12年1569年6月武田氏駿河今川領国への侵攻駿河侵攻に伴い北条氏では甲相同盟手切とし、越後上杉氏との越相同盟締結された。上杉氏北条氏長らく敵対関係にあり、同盟締結に際して北条氏政次男・国増丸上杉謙信養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わり人質求められる三郎同年12月北条幻庵養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される永禄13年1570年4月11日上野国沼田謙信面会し越後国同行する同月25日春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられるこの際春日山城三の丸屋敷与えられたという。 越相同盟対し甲斐武田氏足利義昭織田信長通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏関東勢力迎合して北条氏への牽制行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟維持甲相同盟回復かで路線対立があったという。 元亀2年1571年)の氏康の死去に際して景虎小田原帰参しているが、まもなく越後戻っている。同年12月家督相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結行いこれに伴い越相同盟手切となっているが、景虎越後へ留まっている。

※この「三郎から景虎へ」の解説は、「上杉景虎」の解説の一部です。
「三郎から景虎へ」を含む「上杉景虎」の記事については、「上杉景虎」の概要を参照ください。

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