三蔵とサルの伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:55 UTC 版)
唐末から五代を経て北宋代にかけての華北の混乱に伴い、天聖5年(1027年)に玄奘の頂骨が、仏教の信仰厚い江南の天禧寺へ移された(寺伝によれば端拱元年(988年)に長安の紫閣寺から移したともいう)。これにより玄奘を慕う参詣客が増加。元来玄奘と無関係であった江南の地に、東晋の法顕など江南にゆかりのある他の西天取経僧のエピソードや、現地の猿にまつわる伝説が混入し、新たな玄奘三蔵像が増幅されていく。 4世紀に創建された杭州西湖の古刹霊隠寺には、インドから来た高僧慧理が、洞穴の石仏を見てインドの霊鷲山と同じであると驚き、どうして山が飛来したのかと聞いたことから「飛来峰」との別名を持つ。そして慧理がこの洞穴から、自分の侍者だった白猿・黒猿を呼び出してみせたという呼猿洞伝説(『咸淳臨安志』『霊隠寺誌』巻1)もあったという。それもあって、霊隠寺の歴代住持は猿を飼い、法灯にもなった。インドとサルという組み合わせから、三蔵伝説に猿が関与する一因となった可能性もある。 このように宋代においては主に、密教信仰に基づいた玄奘伝説と江南地方に伝わる他の西天取経エピソードが結びつき、『大唐西域記』などの玄奘の旅行記に基づいてエピソードが配置・整理されていった。さらに三蔵伝説が江南から福建方面にも拡がる過程で、江南で有名な呼猿洞伝説と密教系の十二神将の申将(サルの護法神)が融合。慧理を唐三蔵に重ね合わせて、話し言葉で物語を連ねたものが、サルや馬を伴う唐三蔵物語である『大唐三蔵取経詩話』となっていく。
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