三線との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 01:38 UTC 版)
2007年9月、リゾートバイトの為向かっていた西表島へのフェリーで、那覇から石垣への移動の間に三線奏者/島仲久氏ご家族と同室になり、その後影響を受ける。西表島でのバイトの際は当初牛車の手配など裏方の仕事を行っていたが、人手が足りず、牛車の運転手を経て三線を演奏する事になった。この時1週間で三線をマスターし、三線の魅力に取りつかれる。最初に覚えた曲は夏川りみの「涙そうそう」 火野村豪として タイでの生活を皮切りに、芸名を火野村豪(のちに火野村★豪もしくはGou★hinomura)として活動を開始。芸名の由来は、高校時代に読んだ「クライングフリーマン」の主人公の名前「火野村窯」と昔から好きだった漫画家の「永井豪」から。時々「ヒノマルさん」と間違われる事があるが敢えて訂正はしない。 タイでの活動を始めたばかりの頃は、一本下駄に浴衣姿で三線を弾きながらバンコク市内をウロウロしていた。2008年6月、バンコク語学留学中にたまたま知り合ったタイ在住の日本人の紹介でAcademy Fantasia主催のミュージカル「蝶々夫人」のオーディションを受け、バックバンドの和楽器奏者として抜擢される。オーディション時に弾ける曲は”涙そうそう”だけであったが、浴衣と下駄でオーディションを受けたのがプロデューサーに絶賛され大抜擢となった。2008年7月から同年9月まで、バンコクのペチャブリー通りにあるMシアターで公演。このミュージカル「蝶々夫人」がMシアターのこけら落とし公演であった。これを機に三線奏者としての活動が本格的に始まる。
※この「三線との出会い」の解説は、「火野村豪」の解説の一部です。
「三線との出会い」を含む「火野村豪」の記事については、「火野村豪」の概要を参照ください。
- 三線との出会いのページへのリンク