三級選挙権制度の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:14 UTC 版)
「プロイセン衆議院」の記事における「三級選挙権制度の導入」の解説
1849年5月の緊急勅令と8月の議会における承認により、普通選挙に代わって、納税額に基づいて選挙権を三段階に分ける三級選挙権制度(ドイツ語版)が導入された。またこの際に秘密選挙も廃されて公開選挙になったので政府や支配層が選挙民の投票を監視することが可能となった。男子三級選挙権制度と公開選挙制度は1918年に共和政になるまで約70年にわたって維持されることになった。 三級選挙権制度は後世に悪名高い制度となったが、当時としてはそれでも先駆的だった。当時、男子有産者しか選挙権がないというのは国際的に当たり前であり、イギリスやフランスもそうだった。むしろ英仏では無産者には選挙権は一切なかったのに対し、プロイセンでは貧民扶助を受けていないなど特定の条件を満たしている25歳以上の男性であれば三級選挙権は持っていた点は特筆される。 また三級選挙権制度ははじめこそ保守派有利に働いていたが、プロイセンの資本主義化による産業構造の変化で産業資本家と金融資本家の租税負担が増大した結果、1850年代末から1860年代前期にかけてブルジョワ自由主義者の議会内での台頭を促進することになる。そのためブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党と対立するプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクは、普通選挙論者だった社会主義者フェルディナント・ラッサールに接近を図って男子普通選挙法の欽定を匂わせ、進歩党を牽制したこともあった。ただ1860年代半ばからのドイツ統一戦争成功後はブルジョワたちが親政府的になっていったため、プロイセン衆議院の三級選挙権制度は、無産政党ドイツ社会民主党の台頭を抑えて保守党や国民自由党など親政府ブルジョワ諸政党に大議席を保証する制度と化し、保守派の永続的な支配の道具となっていった。
※この「三級選挙権制度の導入」の解説は、「プロイセン衆議院」の解説の一部です。
「三級選挙権制度の導入」を含む「プロイセン衆議院」の記事については、「プロイセン衆議院」の概要を参照ください。
- 三級選挙権制度の導入のページへのリンク