一派温暖育の確立と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:14 UTC 版)
明治初年、隣村渡瀬村原善三郎に託して横浜で自製品の輸出を試みたが、福島県梁川の養蚕家中村佐平次に品質を酷評されたため、更に改良を重ね、火力による空気流通・湿度調整に主眼を置く独自の養蚕方法を確立し、明治5年(1872年)頃「一派温暖育」と称し、甥木村豊太郎、浦部良太郎等を通じて普及活動を行った。 蚕を信仰対象として出来を祈っていた農民からは「寄島の衣笠神」と崇められる一方、伝統的自然観と対立する常時保温という手法は「熬(あぶ)り飼い」とも揶揄された。魔術を用いているとの噂も立ち、大里郡荒川岸某村に出講した際、祟りを恐れた住民に注連縄を張って塩を撒かれたり、某所での講演に蚕種催青器を持ち込んだところ、魔神の入った容器と誤解され、聴衆に猟銃を発砲されたこともあったという。 時間単位での通風管理を要したため、従来の女性による稲作の副業としての養蚕では敷居が高かったが、養蚕業の専業化、労働集約化が進むにつれて受容されていった。
※この「一派温暖育の確立と普及」の解説は、「木村九蔵」の解説の一部です。
「一派温暖育の確立と普及」を含む「木村九蔵」の記事については、「木村九蔵」の概要を参照ください。
- 一派温暖育の確立と普及のページへのリンク