ルクレールの遠征とトゥーサンの捕縛
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「トゥーサン・ルーヴェルチュール」の記事における「ルクレールの遠征とトゥーサンの捕縛」の解説
トゥーサンは独裁権力に近いかたちで自らを終身総督に任じる憲法を定めた。またカトリックを国教に定め、多くの革命的な軍令も形式的に承認された。フランスは公式には何の承認も与えなかったが、トゥーサンはフランスの自治植民地としてナポレオンに忠誠を示した。 ナポレオンはトゥーサンの地位を認めたが、彼を収益の上がる植民地としてのサン=ドマングの回復の障害と看做した。奴隷制の再建を否定しつつも、1802年にはナポレオンの義弟のシャルル・ルクレール率いる2万人の遠征軍がサン=ドマングの再支配を試みた。遠征軍は1月20日に上陸し、トゥーサンと敵対した。トゥーサンの軍はルクレールと戦ったが、月を追う毎に彼の軍からデサリーヌやクリストフなど主だった将校たちがルクレールの側へ離脱した。5月7日ルヴェルチュールはフランスと奴隷廃止を条件にアンネリの農園に引退する協定を結んだ。しかし3週間後ルクレールの部隊は反乱を企てているとの嫌疑をかけてトゥーサンを襲って家族共々捕え、軍艦でフランスへ送った。彼らは7月2日にフランスへ到着した。8月25日トゥーサンはジュラ山脈のドゥー県のジュー要塞(英語版)へ送られ、監禁されて繰り返し拷問を受けた。1803年4月7日トゥーサンは肺炎で亡くなった。 トゥーサンの死後も戦いは続けられ、トゥーサンの巧みな戦術で打撃を受けたうえに黄熱に悩まされたフランス軍はついにハイチから撤退し、1804年1月にハイチ共和国の独立が宣言された。
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