リムリックとゴールウェイの包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:52 UTC 版)
「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「リムリックとゴールウェイの包囲」の解説
詳細は「リムリック包囲戦 (1650年-1651年)」および「ゴールウェイ包囲戦」を参照 10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。アイルランド人貴族であるクランリカード侯ウリック・バーク(英語版)率いる軍はこれを食い止めようとしたがミーリック島の戦い(英語版)で奇襲を受け敗北した。 オーモンド侯は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド侯は12月にフランスに逃れ、彼の代わりにクランリカード侯が指揮官になった。だがアイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市リムリックとゴールウェイを守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。 アイアトンがリムリックを包囲する一方でマウントラス伯はゴールウェイを囲んだが(リムリック包囲戦(英語版)、ゴールウェイ包囲戦(英語版))、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、ノックナクラシーの戦い(英語版)で迎撃され敗北した。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌1652年に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した。以後はチャールズ・フリートウッドとエドマンド・ラドローが征服活動を進めていった。
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