ヨハネ・パウロ1世「暗殺」
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「アンブロシアーノ銀行」の記事における「ヨハネ・パウロ1世「暗殺」」の解説
1975年に頭取に就任したロベルト・カルヴィと、サルヴァトーレ・リイナやヴィト・ジェノヴェーゼなどのイタリア、アメリカの両国のマフィアとの関係が深く、自らもマフィア関係者と目されていた、ミラノのプライベートバンクの頭取であるミケーレ・シンドーナ、そしてバチカン銀行総裁でアメリカのシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教らが、アンブロシアーノ銀行からバチカン銀行を通じてマフィア絡みのマネーロンダリングや不正融資を行っていたことから、1978年8月に法皇に就任したヨハネ・パウロ1世は、バチカン銀行の改革を表明していた。 しかし、ヨハネ・パウロ1世が法皇就任後わずか33日で逝去したため、バチカン銀行の改革と自らの追放を恐れたマルチンクス大司教が、ヨハネ・パウロ1世を「暗殺」したのではないかと噂された。 なお、マルチンクス大司教はアメリカ在住時から、フリーメイソンの「ロッジP2(Propaganda Due)」の会長で、イタリアの極右政党やCIA、さらにアルゼンチンのファン・ペロン大統領などとの関係が深かったリーチオ・ジェッリ会長や、同ロッジのメンバーでもあったシンドーナやカルヴィ頭取、そしてマフィア関係者との不明朗な関係が噂されていた。
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ヨハネ・パウロ1世「暗殺」
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「リーチオ・ジェッリ」の記事における「ヨハネ・パウロ1世「暗殺」」の解説
しかし、1978年8月にパウロ6世教皇が死去しヨハネ・パウロ1世が同月26日新教皇に就任すると、バチカン銀行の取り引きの調査を進めることを指示しただけでなく、この時点でマスコミにすらその疑惑が取りざたされていたマルチンクス大司教の解任を中心としたバチカン内の新人事の発令を進めた。 しかしヨハネ・パウロ1世は、同年9月28日の早朝にバチカン内の住居のベッドで死去しているのが発見された。教皇就任後わずか33日後の死であった。 これにより、バチカン銀行に対する調査やマルチンクス大司教の解任は実行されないままとなった。さらにヨハネ・パウロ1世を継いで1978年10月に教皇となったヨハネ・パウロ2世が、急死した前任者と打って変わってバチカン銀行の改革に熱心でなかったこともあり、その後もジェッリやカルヴィは、マルチンクス大司教の庇護の下でバチカン銀行を経由したマフィア絡みのマネーロンダリングと不正融資を続けた。 なお、ヨハネ・パウロ1世教皇の逝去後に、ヨハネ・パウロ1世教皇が逝去時に手にしていた新人事について書かれた書類やメガネ、スリッパなどが行方不明になったり、検視や解剖もされないままに即座に遺体に保存剤を注入するなど、死因を隠ぺいするような不可解な動きが行われたこと、さらに、バチカン外に居住していたマルチンクス大司教が教皇逝去の直後の早朝に、普段早朝に足を踏み入れることが無かったバチカンにいたことが目撃されていたことなどが疑惑を呼び、教皇の突然の死が、教皇により解任されることになっていたマルチンクス大司教やジェッリ、シンドーナやカルヴィによって仕組まれた「暗殺」であるという説がその後広まることとなった。
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