ヤン・ベルジンとは? わかりやすく解説

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ヤン・ベルジン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 01:37 UTC 版)

ヤン・カルロヴィチ・ベルジン
Ян Карлович Берзин
1937年の逮捕時の写真。
生誕 1889年11月13日
ロシア帝国リフリャント県ロシア語版
死没 (1938-07-29) 1938年7月29日(48歳没)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
所属組織 ロシア帝国陸軍
赤軍
軍歴 1917年-1937年
最終階級 二等陸軍委員
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ヤン・ベルジンの生誕記念切手

ヤン・カルロヴィチ・ベルジンロシア語: Ян Карлович Берзин, 1889年11月13日 - 1938年7月29日)は、ソ連共産党活動家ならびに政治家、軍人(主に軍諜報機関の指導者)、諜報員強制収容所ラーゲリ)の創設者、二等軍政治委員ロシア語版。民族名はヤーニス・ベールジンシュラトビア語: Jānis Bērziņš)であり、本名はペーテリス・キュジス (Pēteris Ķuzis / Петерис Кюзис)。ラトビア人

人物・経歴

リフリャント県ロシア語版グスタフスベルク地方(Густавсберг мест,現:ラトビアアマタ英語版市・ザウベ教区ラトビア語版英語版)の小作人一家に生まれる。1905年ロシア社会民主労働党入党。1905年~1907年の革命に参加。1907年、警察官殺害の罪で逮捕され、この件に対して懲役8年を言い渡されるも、1909年に釈放。1911年、再逮捕され、イルクーツクに送られたが脱走した。第一次世界大戦開始と共に軍に召集されたが脱走し、ペトログラード工場に入った。

1917年、ロシア社会民主労働党(ボリシェビキ党)ヴイボルグ及びペトログラード委員会委員。同年12月から、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部で働き、レーニンと政府閣僚の個人警護を指揮した。1919年1月~5月、ソビエト・ラトビアの副内務人民委員。1919年~1920年、第15軍特別課を指揮

1920年12月、労農赤軍情報局の仕事に移り、課長(1920年~1921年)、副局長(1921年~1924年)となった。1924年3月から1935年4月まで、労農赤軍参謀本部第4局長として軍諜報機関の基礎を作った。特に彼の在任時、リヒャルト・ゾルゲレオポルド・トレッペル等の優秀な諜報員が採用された。1932年、極東の強制収容所領域の初代所長を兼任。1935年4月から1936年6月まで、独立赤旗極東軍副司令官。1936年、スペインの共和国軍の主任軍事顧問に任命される。1937年7月、ソ連帰国し、再び情報局長となった。しかし、当時のソ連は大粛清の最中にあり、諜報機関員も例外ではなかった。ベルジンは1937年11月27日逮捕され、1938年7月29日死刑を言い渡され、コムナルカ射撃場銃殺された。

1956年、名誉回復がなされた。のちに「強制収容所の創設者である」としてマガダン記念碑が立てられたが、1991年に撤去されている。



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