ヤムハドの繁栄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ヤムハドの繁栄の意味・解説 

ヤムハドの繁栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 10:16 UTC 版)

ヤムハド」の記事における「ヤムハドの繁栄」の解説

中東広がる風神信仰の中心地であり交易中心地という好条件のそろうハルペは、紀元前3千年紀後半アッカドの王ナラム・シンにより古い交易都市国家エブラ破壊された後、エブラ代わるこの地方中心都市へと浮上した紀元前19世紀メソポタミア北西部強国マリの王ヤフドゥン・リム時代ヤムハドの王スム・エプフとの貢納関係がマリ文書には記録されている。スム=エプフの後継者ヤリム・リム1世は、カトナのイシ・アッドゥ王とともにアッシリアシャムシ・アダド1世同盟組んだシャムシ・アダド1世マリ征服したが、マリヤフドゥン・リム息子ジムリ・リムヤムハドのヤリム・リム1世のもとに逃げたジムリ・リムはヤリム・リム1世一族婚姻関係持ちヤムハド後ろ盾得てシャムシ・アダド1世没後マリヤスマフ・アダドから奪還した紀元前1770年前後ジムリ・リム時代外交関係などを記した粘土板文書マリから大量に出土したが、この文書からヤムハドバビロンラルサエシュヌンナカトナなどと並ぶオリエント大国だったことがうかがわれる。ヤリム・リム1世とその息子ハンムラビ1世バビロン王のハンムラビとは別人)は、マリなどとともにバビロンの王に即位しメソポタミアに覇を唱えたハンムラビとも同盟組んだマリ滅んだあとも勢力圏拡大しオリエント大国地位維持したヤムハドハンムラビ1世息子アッバエルは兄弟のヤリム・リム2世北の都市アララハ与えているが、紀元前1750年頃に反乱遭い、ハルペは破壊された。 紀元前18世紀半ばから紀元前17世紀紀元前1650年頃)までの間、再建されたハルペとヤムハド王国についての記録少ない。北のアララハにはヤムハド王家から分かれたヤリム・リム2世の子孫の王朝築かれたが、ここから出土した文書ヤムハド言及される。この時期ヤムハド王国アララハ王国従えていた。ヤムハド地位揺るがす出来事少なかったが、東に勃興するフルリ人国家群との争い起こっている。

※この「ヤムハドの繁栄」の解説は、「ヤムハド」の解説の一部です。
「ヤムハドの繁栄」を含む「ヤムハド」の記事については、「ヤムハド」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヤムハドの繁栄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤムハドの繁栄」の関連用語

1
12% |||||

ヤムハドの繁栄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤムハドの繁栄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヤムハド (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS