モンテネグロとアルバニアの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「モンテネグロとアルバニアの占領」の解説
詳細は「オーストリア=ハンガリー占領期のモンテネグロ(ドイツ語版)」および「第一次世界大戦下のアルバニア(英語版)」を参照 1月4日、オーストリア軍がモンテネグロ王国に侵攻。23日にはモンテネグロ王ニコラ1世が降伏し、フランスへ逃亡した(モンテネグロ戦役(英語版))。アルバニア王国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していたドゥラス(アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていたケルキラ島(元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの東方軍(英語版)とともにテッサロニキに移った)。ニコラ・パシッチ(英語版)率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍捕虜約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちはサルデーニャ北西部のアジナーラ島に移送され、うち約5千人が死亡した。イタリア軍はアルバニアの港湾都市ヴロラを維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日までヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウ(英語版)が軍政府を率いた。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官アウグスト・リッター・フォン・クラル(英語版)の指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された。オーストリア=ハンガリーはアルバニア人の統治への参加を許し、学校とインフラストラクチャーを建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした。
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