マーベル・コミックス
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「スティーヴ・ディッコ」の記事における「マーベル・コミックス」の解説
健康を取り戻したディッコは1955年末にニューヨークに戻り、マーベル・コミックスの前身であるアトラス・コミックスで仕事を始めた。『ジャーニー・イントゥ・ミステリー(英語版)』第33号(1956年4月)に掲載された4ページ作品 "There'll Be Some Changes Made" がアトラスでのデビュー作となった。同作はマーベルの Curse of the Weird 第4号(1994年3月)に再録されている。アトラス/マーベルでは『ストレンジ・テイルズ(英語版)』をはじめ、新しく創刊された『アメイジング・アドベンチャーズ(英語版)』、『ストレンジ・ワールズ(英語版)』、『テイルズ・オブ・サスペンス(英語版)』、『テイルズ・トゥ・アストニッシュ(英語版)』で盛んに作品を発表し、多くの名作を残すことになった。これらの雑誌の多くはカービーのモンスター物で始まり、ドン・ヘック(英語版)やポール・リーンマン(英語版)、ジョー・シノット(英語版)らが落ちの効いたスリラーやSFを1・2編描き、ディッコと原作・編集のスタン・リーによるシュールな、ときに内省的な短編が最後を締めくくった。 リーとディッコの短編は非常な人気を集めたため、『アメイジング・アドベンチャーズ』誌は第7号(1961年12月)から路線を変更して同種の作品だけを載せるようになり、『アメイジング・アダルト・ファンタジー』と改名した。この名は「洗練された」作風を表そうとしたもので、キャッチフレーズも "The magazine that respects your intelligence"(知的な君たちのための雑誌)とされた。リーが2009年に回想するところでは、「当時よく思いついた、オー・ヘンリー風の結末をつけた奇妙な空想話」をディッコとともに「5ページの短い穴埋めコミック・ストリップ」に仕上げ、「わが社のコミックブックでページが余れば何にでも」載せたという。リーによればそれらの作品は、後に「マーベル・メソッド」と呼ばれるようになる制作体制(ライターがプロットを考え、作画家がそれをもとにコマ割りと作画を行い、最後にライターがセリフやナレーションを付ける)の草分けだった。「スティーヴにプロットを軽く説明すれば、あとは彼が全部やってくれた。私が伝えた大ざっぱな骨格から一流のコミック作品を生み出してくれる。私なんかが考えていたものよりはるかに出来のいいものを」
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