ボローニャ-フィオレンティーナ時代 (2004年-2005年)
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「中田英寿」の記事における「ボローニャ-フィオレンティーナ時代 (2004年-2005年)」の解説
2003-04シーズン冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、サッカー選手の職業病ともいえるグロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、マッツォーネは中田の完全移籍を熱望し、中田側もパルマの給料未払いを相殺することで資金のないボローニャを援助する形で移籍する計画を遂行しようとしていた矢先、パルマが子会社の粉飾決算により破産。ボローニャはレンタル元であるパルマ側の破産管財人が要求した金額と年俸を工面できず頓挫した。 2004-05シーズン直前にACFフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。2005年3月にサテライトの試合で結果を出すと、すぐにドイツW杯アジア最終予選に招集され、予選を突破した。クラブにおいても翌シーズンに向けての決意を新たにしたところ、2005-06シーズンから、パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、急転直下、移籍することにした。
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