ボローニャのコッサ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:17 UTC 版)
「フランチェスコ・デル・コッサ」の記事における「ボローニャのコッサ」の解説
コッサにとって不幸だったのは、ボルソ・デスト公が彼の仕事に対して面積あたりいくらという支払いをしたことだった。コッサも「フェラーラの最悪のへぼ絵描き」扱いされたと不満だった。コッサがフェラーラを去り、ボローニャに移ったのは1470年のことである。ボローニャではベンティヴォーリオ家が彼のパトロンになり、多くの絵の依頼があった。そこで彼は『2人の聖者を連れた聖母子とアルベルト・デ・カタネイの肖像』(1474年)、バラッカーノの聖母のフレスコ画、『ジョバンニ・イル・ベンティヴォーリオとマリア・ヴィンツィゲッラの肖像を伴う聖母子』(1472年)を描いている。また、サン・ジョヴァンニ・イン・モンテ教会に、パトモスの聖ヨハネを描いたステンドグラスも作り、その中でも最も優れているものは円窓である。彼の署名もある。
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