ホークミサイル基地の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:24 UTC 版)
「渡嘉敷陸軍補助施設」の記事における「ホークミサイル基地の建設」の解説
1960年3月8日、渡嘉敷村へ米国民政府からホークミサイル基地建設が告知される。場所は北山山頂だった。3月22日、米民政府より土地収用が宣告され、接収命令をうける。場所は沖縄戦の集団自決跡地であるため、慰霊碑「白玉之塔」は北山 (ニシヤマ) から現在のギズ山に移設され、新しく建立された。北山の頂上が大きく削られ1,799,000㎡ の広大なミサイル基地として造成された。 1962年6月1日、ホーク基地が完成し、約250人の米陸軍兵が駐留する。 1968年1月17日、米軍の準機関紙『星条旗新聞』は、毎年恒例でおこなっていた米軍のホークとナイキ・ハーキュリーズのミサイル発射訓練の記事を伝えている。 1969年8月2日、米軍の防空戦略の変更により、ホーク基地が閉鎖されるが、遊休化した状態で、その後も米軍管理下に置かれる。 1971年2月28日、文部省の視察団が来島し、沖縄青年の家の設置調査に当たる。マイヤーズ・シュミッツとの極秘の議事録によると、放置されていた渡嘉敷ミサイルサイトの分厚いコンクリート建造物をどう処分するか財政的問題に難渋していたことがわかる。 1972年5月15日、沖縄返還「祖国復帰」を記念し「国立沖縄青年の家」の設置が宣言され、5月17日に記念式典が挙行される。米軍基地の残骸がそのまま残った荒れ果てた敷地を回復しながら、1972年から「国立沖縄青年の家」が開設されるが、ミサイル発射台やミサイル格納庫などの施設撤去には8年の年月がかかり、1980年3月に完了した。
※この「ホークミサイル基地の建設」の解説は、「渡嘉敷陸軍補助施設」の解説の一部です。
「ホークミサイル基地の建設」を含む「渡嘉敷陸軍補助施設」の記事については、「渡嘉敷陸軍補助施設」の概要を参照ください。
- ホークミサイル基地の建設のページへのリンク