ホイト部全盛時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
エセンの死後、チョロース氏からはオシュ・テムルやケシクといった指導者が輩出されていたがエセン時代ほどに勢力を回復することはできず、代わってホイト部がドルベン・オイラト内で有力となった。モンゴル側ではエセンの死後にヨンシエブやトゥメトといったモンゴリア南方の部族が有力でチャハルのハーンと争っていたため、北方のオイラトとの戦いは避けられていた。ダヤン・ハーンによってモンゴル諸部族が再統一されるとモンゴル側は再びオイラトとの戦いに目を向けるようになる。 1552年、ダヤン・ハーンの孫の中で最も権勢を誇ったアルタン・ハーンはオイラトに遠征し、「8千ホイト」のマニ・ミンガトをクンゲイ川とザブハン川の畔で破った。マニ・ミンガトは殺され、妻のジゲケン・アカと息子のトホイとボケグデイを始めとする国人全てをアルタン・ハーンは征服したという。また、同年にそれまで記載のないホシュート部のハーニ・ノヤン・ホンゴルが初めてオイラト・ハーンを称したと記録されており、アルタン・ハーンの遠征によってホイト部が衰退したのに乗じて勢力を拡大させたものと見られる。 1574年には更に大規模なオイラト遠征が行われた。まずオルドス部のブヤン・バートル・ホンタイジがオイラトに出兵し、同時期にカザフ・ハン国に遠征していたホトクタイ・セチェン・ホンタイジもまたバルス・クルに輜重を置いてオイラト遠征に加わった。ブヤン・バートルがエセルベイ率いる8千ホイトを征服する一方、ホトクタイはハムスとドゥリトク率いるバートトを征服し、その息子のオルジェイ・イルドゥチは食料が尽きて「石を食べた」とされるほど苦労しつつも、バジラ率いるドルベトを征服した。 遠征から諸将が帰る途中、ホトクタイはブヤン・バートルにホイトを解体するよう勧めたがブヤン・バートルは聞かず、また捕虜としたエセルベイの態度が不遜であると怒ったことからエセルベイの叛乱を招き、キルジャバクの畔でブヤン・バートルは殺されホイト部は逃れ去った。エセルベイがオルドス部の首領を殺した一件はオイラト内で広く語り継がれ、形を変えていくつかの史書に記録されている。 1623年、ハルハ部のウバシ・ホンタイジがオイラトへと出兵したが、その際にエセルベイの息子のサイン・キャー(ノム・ダライ)も参戦していた。ウバシ・ホンタイジとの戦争には勝利したものの、1625年にはホシュートのチン太師の遺産の分配を切っ掛けとしてオイラト部族連合全体を巻き込む内乱が勃発し、特にホイト・バートト・バルグが壊滅的な打撃を受けた。弱体化したこれらの部族の内、バートトはホシュートに吸収され、ホイトはジュンガルに併合されたものと見られる。
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