ペルシア支配とロシアによる征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:10 UTC 版)
「ダゲスタンの歴史」の記事における「ペルシア支配とロシアによる征服」の解説
「サファヴィー朝」、「アフシャール朝」、「ナーディル・シャーのダゲスタン戦役(英語版)」、「ガージャール朝」、「コーカサス諸ハン国(英語版)」、および「デルベント・ハン国(英語版)」も参照 詳細は「ロシア・ペルシャ戦争」、「ゴレスターン条約」、「コーカサス戦争」、および「ミュリディスト戦争(英語版)」を参照 16世紀初、サファヴィー朝ペルシアがダゲスタンの統治を再び確立、以降断続的ながらペルシア支配が19世紀初期まで続いた。16世紀と17世紀には法律における慣習が法典化され、ジャマート(英語版)と呼ばれる集落の組織がある程度の自治権を得た。一方、クムイク人のシャムカル(英語版)は1651年から1653年までのロシア・ペルシャ戦争(英語版)がロシアの敗北に終わったにもかかわらず、ツァーリの保護を求めた。ロシアは18世紀にダゲスタンへの支配を強めようとし、ピョートル1世が1722年から1723年のロシア・ペルシャ戦争でダゲスタンの海岸部を併合したが、1735年のギャンジャ条約で返還している。 また18世紀にはアヴァル・ハン国(英語版)の中興も見られ、ナーディル・シャーのダゲスタン戦役(英語版)では一時的に抵抗に成功し、シルヴァン(英語版)とグルジア諸国に年貢を強いるほどであった。1747年以降、ペルシア領ダゲスタンはデルベント・ハン国(英語版)を通じて治められるようになり、その中心地はデルベントであった。エカチェリーナ2世のペルシア遠征(英語版)(1796年)はロシア帝国がデルベントを占領する結果に終わったが、今度はエカチェリーナ2世の死去など内政問題によりまたしても撤退を余儀なくされ、ダゲスタンはガージャール朝ペルシアに再占領された。 1806年、デルベント・ハン国はロシアに占領され、1804年から1813年までのロシア・ペルシャ戦争の後に正式に確認された。1813年、ロシアが戦争に勝利したことでガージャール朝はゴレスターン条約でデルベントを含むダゲスタン南部などコーカサスの広大な領土を割譲せざるを得なかった。1826年から1828年までのロシア・ペルシャ戦争を終結させたトルコマーンチャーイ条約により、ロシアのダゲスタン支配はゆるぎないものになり、ペルシアは二度とダゲスタンに手を出せなくなった。
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