プリンスルパート市誕生前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:37 UTC 版)
「プリンスルパート」の記事における「プリンスルパート市誕生前」の解説
1800年代中ごろまでには、缶詰工場が海岸線に点在していた。エシントン港、シンプソン港、メトラカトラ港という3つの港には、交易所が設けられ、交易が行われた。 1903年、海岸に鉄道を建設する計画が海岸の調査を始めるきっかけになり、チャールズ・エム・ヘイズ(英語版)(グランドトランク太平洋鉄道の当時の社長)およびグランドトランク太平洋鉄道の職員がカナダを横断し、1904年3月にタックインレット (Tuck Inlet) に到着した。このとき、鉄道の終着駅をカイエン島に建設する決断がなされた。 1905年3月、グランドトランク太平洋鉄道(英語版)は1万エーカーの土地をカナダ政府から授与された。1906年2月に市名が決まった。ハドソン湾会社初代総督カンバーランド公ルパートにちなんで名付けられた。市名はカナダ全国規模の公募で決められた。ジョエル・エイチ・ピルスブリ(英語版)の下、グランドトランク太平洋鉄道の調査隊はプリンスルパートの建設用地の整備を始めた。 1907年には、「ノックスヴィル」というジョン・ノックスが命名した植民地にある河岸にある道は、「ルパートロード」と呼ばれた。ノックスは、プリンスルパートで事業を始めようとしたが、グランドトランク太平洋鉄道に却下された。そして、「グランドタークフラクション」という先住民の土地に対し、鉱物に関しての訴訟を起こした。これは、プリンスルパート初の新聞「エンパイア」の創業者であるジョン・ハウストン(英語版)も起こした訴訟である。 1908年1月、新都市設計のためにボストンファームから都市計画コンサルタントらがプリンスルパートに訪れた。その後、1909年には1万4000エーカーの土地がさらに授与された。バンクーバーとビクトリアで2400区画の競売が行われ、土地が売却された。人口は3倍になった。
※この「プリンスルパート市誕生前」の解説は、「プリンスルパート」の解説の一部です。
「プリンスルパート市誕生前」を含む「プリンスルパート」の記事については、「プリンスルパート」の概要を参照ください。
- プリンスルパート市誕生前のページへのリンク