プエブラ司教
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「フアン・デ・パラフォクス・イ・メンドーサ」の記事における「プエブラ司教」の解説
1639年にヌエバ・エスパーニャのプエブラ・デ・ロス・アンヘレス(プエブラ)の司教に任命され、翌1640年に赴任した。 司教の仕事は単に宗教的なものでなく政治的内容を含み、ヌエバ・エスパーニャの政治の監察者として働いた。当時のヌエバ・エスパーニャ副王は第17代のエスカローナ侯爵 (Diego López Pacheco, 7th Duke of Escalona) だったが、パラフォクスはその前任者である第15代副王のセラルボ侯爵 (Rodrigo Pacheco, 3rd Marquess of Cerralvo) と第16代副王のカドレイタ侯爵 (Lope Díez de Armendáriz, 1st Marquess of Cadreita) の2名に対する審査 (es:juicio de residencia) を行った。 スペインとポルトガルの戦争(ポルトガル王政復古戦争)が始まると、パラフォクスは王に対してベラクルスに住むポルトガル人を移住させる提案をしたが、採用されなかった。1642年には現副王がポルトガルと結託していたと批判して解任してスペインに送り返し、後任の副王が赴任するまで半年の間自分自身が臨時(第18代)の副王として働いた。第19代副王のサルバティエラ伯爵 (García Sarmiento de Sotomayor, 2nd Count of Salvatierra) とも激しく対立した。パラフォックスはメキシコをスペインから独立させようとしたアイルランド人ウィリアム・ランポート(英語版)の裁判を行った。 宗教面ではフランシスコ会ほかによる当時の教区が世俗の人間によって運営されていることを批判した。彼はフランシスコ会の31の教区を廃止し、フランシスコ会と激しく衝突した。 その後パラフォクスはイエズス会と対立し、イエズス会が十分の一税を支払っていないことを批判した。1647年にはローマ教皇インノケンティウス10世に対してイエズス会を非難する書簡を送っている。副王とメキシコ大司教フアン・デ・マニョスカはこの問題についてイエズス会の方を持ったが、パラフォクスはイエズス会批判を止めなかった。 1649年5月にフェリペ4世はパラフォクスをスペインに呼び戻した。同時に副王のサルバティエラ伯爵はペルー副王に転任になった。
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