フレグ西征軍でのバイジュとは? わかりやすく解説

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フレグ西征軍でのバイジュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:41 UTC 版)

バイジュ (モンゴル部)」の記事における「フレグ西征軍でのバイジュ」の解説

1256年1月8日に、フレグアムダリヤ川渡ってイラン入りした時、出迎え行ったのはイラン総督アルグンらであり、バイジュルーム地方にいて出迎え参加していなかったようである。バイジュフレグのもとに接見したのは、アラムートなどのニザール派城塞群陥落した後、1257年3月末にカズヴィーン近郊到着した時期で、『集史』フレグ・ハン紀によると、この時フレグバイジュに対してチョルマグン派遣以降緩慢な征服のため、却ってバグダードアッバース朝カリフ権威増大させただけであったと、イラン鎮戍軍におけるバイジュ怠慢叱責したという。バイジュバグダードへの征服都市人口多さ軍隊武装多さ加えバグダードまでの街道峻険山道多く通りさらには征服実行するだけの人員兵站の不足などから実行不可であった釈明したフレグはこれを聞いて怒り和らげ来たるバグダード征服への参加今後予定されるフランスイングランドなどヨーロッパ遠征への従軍をも命じている。 これ以降バイジュはスンジャク・ノヤンやスニタイ・ノヤンなどフレグ幕下諸将とともにバグダードの戦い向けてのザグロス山中イラク方面の諸都市征服に従っている。バグダードの戦いではフレグ本営とする中軍左翼軍はキトブカやイルゲイ・ノヤンなどが担当しバイジュ・ノヤン率い諸軍フレグ西征軍従軍していたジョチ・ウルス王族たちやスニタイ・ノヤンなどとともに右翼軍に配された。 バグダード包囲では、1258年1月23日先鋒としてバイジュブカ・テムル、スンジャクが最初にチグリス川渡ってバグダードの西対岸地域に陣取った当時フレグケシクの長でもあったスンジャク・ノヤンはバイジュとその軍に、バグダード対すチグリス西岸部隊前衛とるように要請したフレグバグダード市街の東に陣取り本格的な戦闘開始されると、バイジュバグダード周辺での戦闘では、主にチグリス西岸ブカ・テムルやスンジャクとともに行動しカリフ軍と戦っている。

※この「フレグ西征軍でのバイジュ」の解説は、「バイジュ (モンゴル部)」の解説の一部です。
「フレグ西征軍でのバイジュ」を含む「バイジュ (モンゴル部)」の記事については、「バイジュ (モンゴル部)」の概要を参照ください。

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