フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動」の解説
1614年8月22日、フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた。地方政府も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない」と判断した。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた。 17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった。
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