フセヴォロド3世とは? わかりやすく解説

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フセヴォロド3世

(フセヴォロド・ユーリエヴィチ (キエフ大公) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 04:34 UTC 版)

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フセヴォロド3世
Все́волод III Ю́рьевич Большо́е Гнездо́
キエフ大公
ウラジーミル大公
在位 キエフ大公1171年1173年
ウラジーミル大公1176年 - 1212年

出生 1154年
死去 1212年4月15日
配偶者 マリヤ・シュヴァルノヴナ
  リュバヴァ・ヴァシリコヴナ
子女 コンスタンチン
ユーリー2世
ヤロスラフ2世
スヴャトスラフ3世
フセスラヴァ
ヴェルフスラヴァ 他
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 ユーリー・ドルゴルーキー
母親 エレナ
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フセヴォロド3世Все́волод III Ю́рьевич Большо́е Гнездо́, 1154年 - 1212年4月15日)は、ウラジーミル大公。短期的にはキエフ大公位にも就いた。洗礼名はドミートリー。モスクワ北方の町ドミトロフは彼の生誕に伴い建設された。父はユーリー・ドルゴルーキー、祖父はウラジーミル2世モノマフ、異母兄はアンドレイ1世。初めて公式にウラジーミル大公を名乗った。子が多く、大巣公と呼ばれた。息子にはコンスタンチンユーリー2世ヤロスラフ2世ら、孫にアレクサンドル・ネフスキーがいる。妻はオセット人といわれるマリヤ、のちヴィテプスク公ヴァシリコ2世娘リュバヴァ(子はない)。

生涯

1169年、ウラジーミル大公である兄アンドレイ1世の命により、甥のムスチスラフ(ru)と共にキエフを陥落させた。1173年に、キエフにおいて、従兄弟のダヴィド、ムスチスラフにより捕らわれた。

1174年のアンドレイ1世の死後、ウラジーミル大公国ではフセヴォロド・彼の兄ミハイルの叔父対ムスチスラフ・ヤロポルクの甥の間に内訌が発生、この争いは年少都市ウラジーミル市の支持を受けた叔父陣営が年長都市ロストフ市及びスーダダリ市の支持を受けた甥陣営に勝利する結果に終わった。これによりミハイルがウラジーミル大公となり、フセヴォロドはペレヤスラヴリ公となった。1176年、ミハイルの死後ムスチスラフを再び退け、ウラジーミルの市民により公として招かれた。

1182年頃から、ヴォルガ・ブルガールに視線を向け始め、1186年にはブルガールにゴロジェッツから遠征軍を送った。

1212年、全ルーシの大多数の諸公から「父」と敬われ、キエフを含む全土に絶大な力を振るったフセヴォロドは死去した。この際、彼は年長権を対立していた長子コンスタンチンではなく次子ユーリーに譲渡した。

参考文献

先代:
-
ウラジーミル大公
初代
1176年 - 1212年
次代:
ユーリー2世




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