フセヴォロド・グレボヴィチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:46 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動フセヴォロド・グレボヴィチ Всеволод Глебович |
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プロンスク公 コロムナ公 |
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フセヴォロドの死
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在位 | プロンスク公:? - 1186年、1188年 - 1207年 コロムナ公:1186年 - 1188年 |
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死去 | 1207年 |
子女 | ミハイル |
家名 | リューリク家 |
父親 | リャザン公グレプ |
母親 | エヴフロシニヤ・ロスチスラヴナ |
フセヴォロド・グレボヴィチ(ロシア語: Всеволод Глебович、? - 1207年)は、リャザン公グレプの子である。プロンスク公:? - 1186年、1188年 - 1207年。コロムナ公:1186年 - 1188年。
生涯
フセヴォロドは1180年に、ウラジーミル大公フセヴォロドの支援を受け、兄弟のウラジーミルと共に、兄のリャザン公ロマン(ru)とイーゴリを攻撃した。その後、弟のスヴャトスラフ(ru)と共にプロンスク公国を統治した。1186年、兄弟のロマン、イーゴリ、ウラジーミルは同盟を結び、プロンスクを包囲した。都市は降伏を余儀なくされ、スヴャトスラフはロマンらに従属した。フセヴォロドは2年の間コロムナに拠ったが、ウラジーミルのプロンスク統治期において、その支援を受けてプロンスク公に復位した。
子にはプロンスク公位を継承したミハイルがいる。
参考文献
- Войтович Л. КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
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