フォスダイク文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 08:06 UTC 版)
「メアリー・セレスト」の記事における「フォスダイク文書」の解説
セレスト号の発見から40年余経った1913年、メアリー・セレスト号の海難事故の真相を語るとする、いわゆるフォスダイク文書が発表された。 アベル・フォスダイク(Fosdyk)は使用人で、死ぬ間際にセレスト号の謎を明かす手記だと言い残して文書を雇用主に託していた。雇用主はA・ハワード・リンフォードといい、オックスフォード大学モードリン・カレッジに在籍する、ピーターバラロッジ予備校(現今のダウンセンドスクール(英語版))校長だった。同氏はシャーロック・ホームズの連載で有名な『ストランド・マガジン』誌に事情を説明する書簡を送り、これが読書欄に掲載され、ついで同誌が入手した文書の一部抜粋を刊行した。 手記によれば、フォスダイクは何らかの理由でアメリカを去らねばならず、友人であるブリッグズ船長(*グリッグスと誤記)に頼みこみ、密航者としてセレスト号に同乗した。船長は7,8歳の娘が舳先に突き出る棒(バウスプリット)によじ登って遊ぶのを危ぶみ、大工に命じてテーブルをリフォームさせた特別なハイデッキをそこに設置させた。だから、不審の証拠ではないかとフラッド司法長官が疑った舳先の両側の深い傷も、じつはそのときの工事跡にすぎないと説明している。 手記によれば、船長の挙動が多少常軌を逸するものになっていたという。船員が落ちても追って飛び込まなかった一等航海士(英語版)を卑怯者となじり、その者が、服装が多くて溺れそうだったかと弁解すると激怒した。そしてそれを嘘だと証明するため、わざわざ着替えたうえで二人の船員と海に飛び込んで、泳いで見せるようとした。それを残りの人たちがこぞってハイデッキにあがって見物しようとしたため、折れてみな落ちてしまった。そして海にこぼれた全員がサメに襲われ最期を遂げた。フォスダイクだけはハイデッキの破片の上だったので、そのままアフリカの海岸まで漂着し、フランス経由で英国に渡ったのだという。 説明自体は筋が通っているが、事実誤認が多すぎて捏造とされる。船長名の誤記のみならず、他の船員名も事実とまるで違い、船室係(steward)の者は自分がその役を担ったとすり替え、黒人の別称でのみ呼ばれていた一人など、搭乗者も(7名から)13名に増やしている。
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