フェロー諸島沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
「ラワルピンディ (仮装巡洋艦)」の記事における「フェロー諸島沖海戦」の解説
1939年11月23日、フェロー諸島北方で哨戒中の「ラワルピンディ」は大西洋へ進出しようとしていたドイツ戦艦「シャルンホルスト」と遭遇した。「ラワルピンディ」はこのことを報告し、「シャルンホルスト」は降伏を勧告してきたが、ケネディ艦長は降伏を拒否し、以下のように返信した。 We’ll fight them both, they’ll sink us, and that will be that. Good-bye.(我々は互いに戦い、君たちは我々を沈めるだろう、それで結構。さらば。) 「ラワルピンディ」は「シャルンホルスト」に対し攻撃を始め、フェロー諸島沖海戦が生起した。しかし、仮装巡洋艦である「ラワルピンディ」と正規の軍艦である「シャルンホルスト」には攻撃力に圧倒的な差があり、20km離れていた「シャルンホルスト」の姉妹艦「グナイゼナウ」も砲撃に加わったため、艦橋や無線室に被弾した「ラワルピンディ」は船体中央部で大火災を起こし、3時間漂流した後に沈没した。ケネディ艦長を含む275名が戦死し、P&Oラインの船員も65名中54名が死亡した。救命ボート3隻に分乗した生存者37名の内、2隻に乗っていた26名はドイツ艦隊に救助され捕虜となったが、1隻に乗った11名は同じく仮装巡洋艦となっていたP&Oラインの「チトラル」に救助された。 「ラワルピンディ」の行動により、スカパ・フローのイギリス本国艦隊は「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」を追撃すべき出航したが、2隻を見失う失態を犯した。一方の「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」も、ヴィルヘルム・マルシャル艦隊司令官の判断で大西洋への進出を断念し、キールへ帰還した。 海戦の数日後、ネヴィル・チェンバレン首相は議会で本国艦隊の失態を棚に上げる一方で、「ラワルピンディ」の孤軍奮闘ぶりを称え、勲章を授与すると議会で演説し、ケネディ艦長には柏葉敢闘章が追贈された。1941年、この海戦に参加した「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」の乗員に艦隊戦闘章が授与された。
※この「フェロー諸島沖海戦」の解説は、「ラワルピンディ (仮装巡洋艦)」の解説の一部です。
「フェロー諸島沖海戦」を含む「ラワルピンディ (仮装巡洋艦)」の記事については、「ラワルピンディ (仮装巡洋艦)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書からフェロー諸島沖海戦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- フェロー諸島沖海戦のページへのリンク