フィデナエの破壊とウェイイの陥落(紀元前426年-紀元前396年)
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「ローマ・エトルリア戦争」の記事における「フィデナエの破壊とウェイイの陥落(紀元前426年-紀元前396年)」の解説
詳細は「フィデナエの戦い (紀元前426年)」を参照 詳細は「ウェイイ包囲戦 (紀元前396年)」を参照 紀元前426年、ローマでは通常の執政官(定員二人)に代わりトリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ(執政武官)4人が選出され、軍を率いることとなった。パトリキから選出される執政官とこと内、執政武官はプレブスでも就任可能であるため、この制度は両者の不和を緩和する策として採用されたもので、紀元前444年に初めて設立されたものである。紀元前426年の執政武官4人のうち、3人がエトルリアへ向かったが、敗北を喫してしまった。 ローマの敗北を見るとローマの植民者を受け入れていたフィデナエは反乱(リウィウスによると7回目の反乱)した。このため、元老院はマメルクス・アエミリウス・マメルキヌスを三度目の独裁官に任命した。ウェイイ軍がティベリス川を渡ってフィデナエに集結すると、マメルクス・アエミリウスはフィデナエに向かい、街から2キロメートル程度はなれた場所に野営地を設営した。さらに、敵の背後の高地を気付かれずに占領させた。 翌日に戦闘が起こるが、全方面から攻撃を受けたエトルリア軍は敗北し、ウェイイ兵は戦場を脱出、フィデナエ兵は街に撤退した。ローマ軍はこれを追ってフィデナエに突入した。戦闘と言うよりは虐殺となり、フィデナエ兵は武器を捨て、アメミリウスに命乞いをした。フィデナエは破壊された。 紀元前396年、ウェイイはローマに対する最後の戦いを始めた。ローマはマルクス・フリウス・カミルスを独裁官に選出した。ウェイイは何度か包囲されたことがあったものの、強固な防御力を誇り占領されることはなかった。マルクス・フリウスは強襲での占領は不可能と考え、ウェイイ市内のユーノー神殿に通じるトンネルを掘らせた。トンネルが完成すると城壁に対して総攻撃を行い、ウェイイ兵が城壁の防御に集中している間に、一部の兵がトンネルを通ってウェイイ市内に突入した。これで勝敗は決した。ウェイイは破壊されず、そのままローマの一都市として存続し、ローマに同化していった。
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