パシフィック時代の没収試合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:47 UTC 版)
「白石勝巳」の記事における「パシフィック時代の没収試合」の解説
1946年は戦後再開初年度で混乱期でもあり、復員した選手もプロ野球が再開されるか半信半疑で故郷に帰っている者が多く、各チームとも選手の獲得に奔走する。リーグ戦中断時の申し合わせにより、選手は旧所属チームに復帰するか、他チームに入団する場合は旧所属チームに了解を得るなどの取り決めがあった。ここで、パシフィック監督に就任した藤本定義は「戦争が終わって日本も一から出直す、職業野球も同じ。選手も自由に球団を選ぶべき」と主張。巨人時代の恩師である藤本の勧誘を受けて、元阪神の藤井勇・藤村隆男、元巨人のヴィクトル・スタルヒンとともに、白石はパシフィックに入団した。これに対して、当時も大きな力を持っていた巨人と阪神が怒って提訴したことから、日本野球連盟の理事会では旧所属チームが持つ優先権の侵害によりこの入団を認めない、と裁定を出した。 しかし、公式戦が始まると「どうして白石を出さない、藤井を出さない」という観客からのヤジに耐えかね、連盟からの警告にも関わらず藤本は2人を4試合に出場させてしまう。同年秋になって連盟の理事会が召集され、前年までの給与を旧所属チームから受け取っていなかったことから、白石らのパシフィックへの帰属は認めるが、二人を出場させた5月の4試合は帰属が確定する前のため無効で没収試合とする裁定が出た。一方で、その後出場した74試合は、帰属が確定した後のため問題なしと判断された。なお、この年のペナントレースは巨人とグレートリングとの優勝争いが最終戦までもつれたが、4試合の没収試合の中にパシフィックがグレートリングに勝っていた試合が1試合あり、この試合が一転してグレートリングの勝ちとなったことで、1ゲーム差で鶴岡一人率いるグレートリングが優勝した。この没収試合が無ければ同率でプレーオフだったことから、巨人にとってはこの没収試合のために戦後初年度の優勝を逃す事となった。白石はパシフィックでも1番・遊撃手のレギュラーとなり、打率.263を記録している。
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