バーティツ衰退後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 03:19 UTC 版)
「エドワード・ウィリアム・バートン=ライト」の記事における「バーティツ衰退後」の解説
1903年までにバーティツ・クラブは閉鎖された。その後も個人的にバーティツの開発と指導を続けていたとされているが、1920年代には理学療法に興味を持つようになり、護身術の指導をほとんどしなくなった。ロンドン各地に治療院を開設し、キャリアの残りの期間は理学療法士として働き続けた。 彼の治療事業は痛風やリウマチの痛みを治療するために様々な電気器具を使用していたが、ロンドンの医学界から疑惑の目で見られた。元従業員でビジネス上のライバルとなったウィルソン・レー(Wilson Rae)がバートン=ライトを相手取って訴訟を起こしたことや、ベンチャー企業への投資の失敗などもあり、20世紀の最初の30年間に何度か破産手続きをする羽目になった。 1930年から1950年の間のバートン=ライトの人生については、ほとんど知られていない。1938年以降、彼はロンドン郊外のサービトン(英語版)のサービトン・ロード50番にある自宅で診療所を開いていた。 イギリスのホラー作家ロバート・エイクマンの1966年の自伝"Attempted Rescue"の中で、バートン=ライトが「有名な理学療法士で柔道家」と紹介されていた。バートン=ライトはエイクマンの大叔母の知人だった。 1950年、バートン=ライトはロンドンの柔道クラブ「武道会(英語版)」の創設者である小泉軍治のインタビューを受けた。その年の武道会の会合で、バートン=ライトがヨーロッパにおける日本武道の先駆者として紹介された。 1951年4月26日、サリーのキングストン・アポン・テムズ(英語版)において90歳で死去した。バートン=ライトは生涯未婚で、死去時は貧困の状況下だった。サリーのキングストン墓地の名前の刻まれていない墓に埋葬された。
※この「バーティツ衰退後」の解説は、「エドワード・ウィリアム・バートン=ライト」の解説の一部です。
「バーティツ衰退後」を含む「エドワード・ウィリアム・バートン=ライト」の記事については、「エドワード・ウィリアム・バートン=ライト」の概要を参照ください。
- バーティツ衰退後のページへのリンク