バンドン会議開催までの経緯とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > バンドン会議開催までの経緯の意味・解説 

バンドン会議開催までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:51 UTC 版)

アジア・アフリカ会議」の記事における「バンドン会議開催までの経緯」の解説

1954年に印中首脳会談においてネルー周恩来平和五原則発表し同年4月28日から5月2日スリランカ当時セイロン)のコロンボ開催されていたコロンボ会議で、アジア・アフリカ会議開催する構想生まれたコロンボ会議には、アリ・サストロアミジョヨインドネシア首相)、ネルーインド首相)、ムハンマド・アリー・ジンナーパキスタン首相)、ジョン・コタラーワラセイロン首相)、ウー・ヌビルマ首相)の5人が出席していた。この会議インドネシア首相アジア・アフリカ会議必要性表明し、他の4人は検討し第1段階としてボゴール1954年12月28日29日準備会合開いたインド・東南アジアの5ヶ国によるコロンボ会議によりインドシナ戦争早期停止などが訴えられた。コロンボ会議参加した5ヶ国は「コロンボ・グループ」と呼ばれる。 この会議議題次のようなものであったアジア・アフリカ各国間の協力相互利益友好推進 代表各国関係および社会政治・文化問題検討 国家の主権民族問題植民地主義などの、アジア・アフリカ諸国にとって特に重要な諸問題検討 現代における、世界の、特にアジア・アフリカ諸国民の地位と、世界平和推進のために可能である貢献検討 これら5ヶ国とエジプト中華人民共和国中心となって、翌1955年4月18日アジア・アフリカ会議開催実現させた。これは初の非白人国家だけによる国際会議であるとされる30カ国が招待されていたが、中部アフリカローデシア国内情勢安定のために参加できず、29カ国の参加開催された。 なお、中華人民共和国敵対関係にあった中華民国、さらに大韓民国朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)、ソビエト連邦の衛星国であるモンゴル人民共和国(現モンゴル)は招待されなかった。会議直前には中華民国による周恩来暗殺作戦とされるカシミールプリンセス号爆破事件起きている。

※この「バンドン会議開催までの経緯」の解説は、「アジア・アフリカ会議」の解説の一部です。
「バンドン会議開催までの経緯」を含む「アジア・アフリカ会議」の記事については、「アジア・アフリカ会議」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「バンドン会議開催までの経緯」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バンドン会議開催までの経緯」の関連用語

バンドン会議開催までの経緯のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バンドン会議開催までの経緯のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアジア・アフリカ会議 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS