バンドン会議開催までの経緯
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「アジア・アフリカ会議」の記事における「バンドン会議開催までの経緯」の解説
1954年に印中首脳会談においてネルーと周恩来が平和五原則を発表し、同年4月28日から5月2日にスリランカ(当時セイロン)のコロンボで開催されていたコロンボ会議で、アジア・アフリカ会議を開催する構想が生まれた。 コロンボ会議には、アリ・サストロアミジョヨ(インドネシア首相)、ネルー(インド首相)、ムハンマド・アリー・ジンナー(パキスタン首相)、ジョン・コタラーワラ(セイロン首相)、ウー・ヌ(ビルマ首相)の5人が出席していた。この会議でインドネシア首相がアジア・アフリカ会議の必要性を表明し、他の4人は検討し、第1段階としてボゴールで1954年12月28日~29日に準備会合を開いた。インド・東南アジアの5ヶ国によるコロンボ会議によりインドシナ戦争の早期停止などが訴えられた。コロンボ会議に参加した5ヶ国は「コロンボ・グループ」と呼ばれる。 この会議の議題は次のようなものであった。 アジア・アフリカ各国間の協力、相互利益、友好の推進 代表各国関係および社会・政治・文化問題の検討 国家の主権、民族問題、植民地主義などの、アジア・アフリカ諸国にとって特に重要な諸問題の検討 現代における、世界の、特にアジア・アフリカの諸国民の地位と、世界平和の推進のために可能である貢献の検討 これら5ヶ国とエジプトと中華人民共和国が中心となって、翌1955年4月18日にアジア・アフリカ会議の開催を実現させた。これは初の非白人国家だけによる国際会議であるとされる。30カ国が招待されていたが、中部アフリカのローデシアは国内の情勢不安定のために参加できず、29カ国の参加で開催された。 なお、中華人民共和国と敵対関係にあった中華民国、さらに大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ソビエト連邦の衛星国であるモンゴル人民共和国(現モンゴル)は招待されなかった。会議直前には中華民国による周恩来の暗殺作戦とされるカシミールプリンセス号爆破事件が起きている。
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