ハンガリー・オーストリア間の国境の解放
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「ハンガリー民主化運動」の記事における「ハンガリー・オーストリア間の国境の解放」の解説
1989年5月2日、ネーメト内閣は「財政上の理由により」ハンガリー・オーストリア間の鉄条網の維持を放棄すると発表し、その撤去に着手した。これはハンガリーにとってヨーロッパへ復帰する第一歩であったが、同時にウィンストン・チャーチルが名付け親となった「鉄のカーテン」の一角が崩れ去ったことも意味していた。 これによる国境の開放が持つ意味はそれだけに留まらなかった。東ドイツの国家評議会議長兼ドイツ社会主義統一党書記長であったエーリッヒ・ホーネッカーは翌5月3日のドイツ社会主義統一党の政治局会議で、「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴った。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである。結果として西ドイツへの亡命を求める東ドイツ国民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、後のベルリンの壁崩壊や冷戦終結、さらには東欧から全ての共産主義政権を追い払うきっかけともなった。当然、当時のハンガリー政府もハンガリー国民もそこまでの意味を持つとは考えていなかったであろうが、今日においてはハンガリーがオーストリアとの国境を開放したことを語らずに一連の東欧の民主化運動を語ることは不可能であり、その意義は極めて大きいと言わざるを得ない。
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