ハンガリーへの進出と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 03:42 UTC 版)
「ヘルマン・フォン・ザルツァ」の記事における「ハンガリーへの進出と挫折」の解説
1211年、ドイツ騎士団はハンガリー王アンドラーシュ2世の要請に応じてトランシルヴァニアのプルツェンラント(英語版)に移動し、クマン人からの防備にあたる。騎士団はプルツェンラント開拓とともにクマンと戦い、南のワラキアに支配を広げた。ヘルマンは戦闘と開拓の傍らでプルツェンラントをハンガリー王国の支配から独立した地域に変えようと試み、要塞の建設や独自の貨幣の鋳造を行った。騎士団の自立化が進むにつれ、ハンガリーの聖職者と貴族の間に反発が起きる。 1224年にプルツェンラントを教皇の直轄領とするよう、ホノリウス3世を説得し、ホノリウスはプルツェンラントの直轄領化に同意した。しかし、アンドラーシュは教皇の決定に従わず、武力の行使を仄めかして騎士団にハンガリーからの退去を求め、1225年に騎士団はプルツェンラントからの撤退を余儀なくされる。 ヘルマンはハンガリーでの失敗を埋め合わせるためにキプロス島への進出を企画したが、1229年夏にキプロス島進出の計画が頓挫すると、キプロスに代わる場所としてプロイセンの開拓を本格的に推進した。そして、プルツェンラントの経営を経て、ヘルマンは国家運営、聖俗両方の世界との関わり方を学んでいた。
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