ハンガリー・ポーランドの介入
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「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」の記事における「ハンガリー・ポーランドの介入」の解説
その後、ハンガリー王アンドラーシュ2世はハンガリー・ポーランドの同盟を画策し、ロマンの子・ダニールをクラクフ公レシェクの元へ送った。一方、クラクフ公レシェクは、1207年にヴォルィーニの公女グレミスラヴァ(ルーツク公イングヴァリの娘、もしくはベルズ公アレクサンドルの娘。どちらもヴォルィーニ・イジャスラフ家に連なる)を妻に迎えている。そして1208年には、レシェクはヴォルィーニに侵攻し、ヴォルィーニ公スヴャトスラフを捕縛した。ヴォルィーニ公位にはベルズ公アレクサンドルが就いた。一方、ハンガリー王アンドラーシュ2世は、ズヴェニゴロド公ロマンを支援してガーリチを攻め、ガーリチ公ウラジーミルをプチヴリへと追いやった。その上で1210年にはロマンを捕縛した。ガーリチ公位にはハンガリーの承認を得たスモレンスク・ロスチスラフ家のロスチスラフが就いた。 しかしロマンはハンガリーから脱出に成功し、ウラジーミルと和解すると、再びガーリチ公位を奪還した。スヴャトスラフもまたペレムィシュリ公位を得た。テレボヴリ公位にはイジャスラフ(所説あるがウラジーミルの子とされる)が就いた。 一方、ヴォルィーニにおいては、1209年にベルズ公アレクサンドルからルーツク公イングヴァリへヴォルィーニ公位が譲られた。しかしイングヴァリはボヤーレからの人望がなく、再度アレクサンドルがヴォルィーニ公位に就いた。この異動の際に、かつてのガーリチ・ヴォルィーニ公ロマンの未亡人アンナの意見を採用したレシェクは、アレクサンドルの所領であったベルズ公国を、ロマンの子ヴァシリコに譲渡させ、ポーランド領だったブク川西岸の地をヴォルィーニ公領とした。
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