ハイデラバード_(パキスタン)とは? わかりやすく解説

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ハイデラバード (パキスタン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/28 07:44 UTC 版)

ハイデラバード
Hyderabad
حیدرآباد
位置
ハイデラバード
ハイデラバード (パキスタン)
ハイデラバード
ハイデラバード (西南アジア)
座標 : 北緯25度22分45秒 東経68度22分6秒 / 北緯25.37917度 東経68.36833度 / 25.37917; 68.36833
行政
パキスタン
  シンド州
 県 ハイデラバード県
 市 ハイデラバード
City Nazim Kanwar Naveed Jamil
人口
人口 (2015年現在)
  市域 3,429,471人
その他
等時帯 PST (UTC+5)
市外局番 022
公式ウェブサイト : 公式サイト(アーカイブ)

ハイデラバード (Hyderabad、ウルドゥー語シンド語حيدر آباد) は、パキスタンシンド州の都市である。かつてはシンド州の州都であったが、現在はハイデラバード県の県庁所在地である。香水の都として知られ、「街の街路が香水で毎日洗い清められた」という伝承にちなんでパキスタン建国以前には「インドのパリ」とも称された。ハイデラバードの気候は気温・湿度ともに高い。同地域のシンド語文学運動の舞台となり、多くの詩人の生誕地でもある。文化と伝統に恵まれ、世界最大の腕輪(バングル)生産地であり、シンド州の都市部と地方を結ぶ交通の要所でもある。2015年の人口は約343万人。

歴史

イスラム化以前

紀元前2600年から紀元前1800年インダス文明時代、ムルターン地区は農業地域と森林であった。紀元前1500年から紀元前500年ヴェーダ時代中央アジアからインド・アーリア人インダス川地域に侵入し、定住した。この小さな漁村は不毛の丘によって洪水から守られていた。この村はネルーン・コトゥ(نيرون ڪوٽ)(ネルーンが来た場所)として知られるようになった。丘の上の小さな石灰岩は誓いの場所とされ、僧侶が村が交易で繁栄していることに感謝した。豊かであるが、武器をほとんど持たないこの村は外敵に狙われやすかった。

636年チャチュ・ナーマによるとブラフマナバードアフガム・ロハナが支配していた。

イスラムによる征服

兵を率いるムハンマド・ビン・カーシム(711~712年)

711年ムハンマド・ビン・カーシムが町を征服した。

712年中ごろまでに、イスラム軍はシンド州の大部分を征服した。アラブ人の短い支配の後、イスラム教に改宗した地元のソムルー族が支配を引き継いだ。

997年アフガニスタンガズナ朝サブク・ティギーン王が、息子のマフムード王に王位を譲った。1005年、マフムード王はカーブルシャヒ王国を征服した。続いてシンド州を征服した。

1206年デリー・スルターン朝が征服した。スーフィズム伝道師がイスラム教を広め、ダルガー(聖者廟)がシンド中に造られた。

1351年サンマ朝が征服した。ソムルー族の法律は引き継がれた。

1524年アフガニスタンアルグーン朝が征服した。

1554年北インドムガル帝国が征服した。この新しい支配者はネルーンの住民と結婚し、土地に定着していったが、17世紀後半になってムガル帝国によるシンド州の支配が弱まった。

1701年、ヤー・ムハンマド・ハーン・カルホラは実質的なシンド州の支配者になった。彼は地域で最有力のカルホラ族(کلہوڑ)の出身であった。

カルホラ朝・タルプル王国

パッコ・チッロ砦

1757年ごろ、インダス川はモンスーンによる大洪水で流路が変化した。ミヤーン・グラーム・シャー・カルホラがシンド王になったとき、首都フダーバードダドゥの近く)は何度も洪水に見舞われていた。グラーム・シャー王はより良い場所に遷都することを決めた。グラーム・シャー王時代はシンドの黄金時代といわれている[1]

1768年、グラーム・シャー王は古都ネルーン・コトゥの上にパッコ・チッロ砦を中心に新首都ハイデラバードを建設した。ムハンマドの義理の息子のハイダルが名前の由来である。

1789年タールプル王国ミール・ファテフ・アリー・ハーン・タールプル英語版がカルホラ王国からハイデラバードを奪った[1]1792年、ファテフ・アリー・ハーン王は正式にハイデラバードに入城し首都とした。彼はパッコ・チッロ砦を住居兼王宮とした。フダーバードから多くの住民が新首都に移住した。

1843年2月17日、タルプル王国とイギリスの間でミヤーニーの戦いが始まった。3月24日、タルプル王国はイギリスに降伏した。その後、イギリスはシンド州全体を征服した。州都はイギリス東インド会社のあるカラチに移された。王族はカルカッタ近郊で幽閉された。王族の遺体はイギリスの許しを得て、ハイデラバードが始まった場所であるガンジョ丘に埋葬された[1][2]

イギリス植民地時代

1853年、ハイデラバード市が設置された[2]

1857年インド大反乱が起きた。

1861年、イギリスはパッコ・チッロ砦を武器庫として利用した[2]

1872年の人口は4万3088人であったが、1881年には人口が4万8153人に増加した。

1886年北西鉄道が開通し、ラホールカーブルと結ばれた。

1891年時点で5万8048人であった人口は、1901年に6万9378人まで増加した。市民の64%がヒンドゥー教徒で、35%がイスラム教徒、1%がキリスト教徒であった。キリスト教徒はイギリス兵のほかに改宗した住民もいた。ボンベイ管轄区で7番目に人口が多かった[2]。人口増加に対応するために、イギリスは水道を広い範囲に設置した[2]

パキスタン独立

1947年、パキスタンは独立を果たした。ムスリムのほとんどが全インド・ムスリム連盟パキスタン運動を支援した。少数派のヒンドゥー教徒シク教徒インドに移住し、逆にインドからムスリムがハイデラバード地区に移住した。パキスタン運動以前、ハイデラバードには多くのシンド・ヒンドゥーが暮らし、交易や商業を行っていた。彼らは独立後もシンド州で暮らせると考えていたが、インドへの移住を強制された。インドからの移住者(ムハージル英語版)によって多くの暴力事件が起きた。シンド・ヒンドゥーの財産はムハージルに奪われた。ムハージルは主にヒラバード地区の土地を受け取った。人口増加に伴い、パキスタン政府は2つの郊外地区をハイデラバードに新設した。ムハージルによりシンド州で2番目に人口が多くなったことで、再び州都になった。

1953年、自治体になった。

1955年カラチに州都が移った。

1980年代、多数派のシンド人と新住民のムハージルの間で抗争が続き、社会が分断された[3]

1988年、ヒラバード地区からラティーファバード地区までの道に遺体が散乱していたと報告された。1日で60人が、暴動全体で250人が殺害された。その反動で、カラチでは60人以上のシンド語を話す人々が銃殺された[3][4]。2,000人の警官暴動を鎮圧しようとしたが、失敗した。また、民族の棲み分けが進んだ[3][5][6][7][8][9][10][11][12]

脚注

  1. ^ a b c Mir Atta Muhammad Talpur. “The Vanishing Glory of Hyderabad (Sindh, Pakistan)”. UNIOR Web Journals. 2008年4月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e Hyderābād City – Imperial Gazetteer of India v. 13, p. 321”. Imperial Gazetteer of India. 2008年4月3日閲覧。
  3. ^ a b c Pakistan Backgrounder”. South Asia Terrorism Portal. 2008年4月14日閲覧。
  4. ^ http://www.pildat.org/publications/publication/Conflict_management/EthnicConflictinSindhOctober2011.pdf
  5. ^ https://www.nytimes.com/1988/10/02/world/ethnic-rioting-in-karachi-kills-46-and-injures-50.html
  6. ^ Col. Ved Prakash. Encyclopaedia of Terrorism in the World, Volume 1. Kalpaz publication. ISBN 978-81-7835-869-7. https://books.google.com.pk/books?id=-9iF9n2a80EC&pg=PA367&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CCEQ6AEwAWoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  7. ^ Oskar Verkaaik, by. Migrants and Militants: Fun and Urban Violence in Pakistan. Princeton university press. https://books.google.com.pk/books?id=Mw6rMHMTe5QC&pg=PA189&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CCYQ6AEwAmoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  8. ^ Alyssa Ayres, By. Speaking Like a State: Language and Nationalism in Pakistan. Cambridge University press. https://books.google.com.pk/books?id=FddJQi1dQ30C&pg=PA54&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEMQ6AEwB2oVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  9. ^ Papiya Ghosh, By. Partition and the South Asian Diaspora: Extending the Subcontinent. Routledge. ISBN 0-415-42409-7. https://books.google.com.pk/books?id=xP4jAwAAQBAJ&pg=PA120&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEkQ6AEwCGoVChMIkZC2nuPwxwIVRlgaCh3PSQcy#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  10. ^ Nichola Khan. Mohajir Militancy in Pakistan: Violence and Transformation in the Karachi. Routledge. https://books.google.com.pk/books?id=m2yMAgAAQBAJ&pg=PA33&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CDoQ6AEwBjgKahUKEwiej_Hh5vDHAhWKtBoKHSEzDvE#v=onepage&q=Urdu-Sindhi%20riots%20of%201988&f=false 2015年9月12日閲覧。 
  11. ^ Michel Boivin (2008). Sindh Through History and Representations: French Contributions to Sindhi Studies. Oxford University Press. pp. 146. https://books.google.com.pk/books?id=bXYMAQAAMAAJ&q=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CB4Q6AEwATgUahUKEwjmj5uc5_DHAhWLSRoKHXUdBeE 2015年9月12日閲覧。 
  12. ^ Hari Sharan Chhabra (1994). World Focus, Volume 15. H.S. Chhabra. https://books.google.com.pk/books?id=-ydnAAAAMAAJ&q=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&dq=Urdu-Sindhi+riots+of+1988&hl=en&sa=X&ved=0CEYQ6AEwCTgUahUKEwjmj5uc5_DHAhWLSRoKHXUdBeE 2015年9月12日閲覧。 

関連項目

外部リンク

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